あなたはどうやって、からだとこころとことばを区別していますか。

 ふだんの私たちにとって、ことばとこころはぴったり張り合わされた二枚の布のように密接に結びついていますから、その働きをそもそもことばとこころとに別々に分けて扱うのさえ難しいものです。それはまるで、こころとからだのようにぴったりひっついています。しかし、こころとからだの密接な結びつきにも関わらず、その働きからそれぞれを区別することはできます。こころの中でどんなに念じても目の前の石を動かす事はできません。昔はそんな事のできる人がたくさんいたのでしょうか。私の身の回りにはいませんが。また、歩きながら考え事をしていても、歩くのに支障はありません。食べながら友達とおしゃべりをしても、間違って食べ物をこぼすことも普通はありません。私の母はもう80歳を過ぎましたから、食事に集中していてさえよくこぼしますけれども。とにかく、こころとからだは、その働きから一応の区別はできます。


 いや、心の働きも脳が関係あるから、心はからだの一部だという人もいます。その説を否定するのは難しいです。しかし、その説を肯定しても、毎日直接経験している、私たちのこころとからだを区別しているこの実感は大きく変わりません。こころで直接感じとる、言われるまでもなく考えるまでもなく、誰もが自分のこころとからだについて、分かりきっている、からだとこころの結びつきとそれぞれの働きの違いについて分かっていることと、脳の働きが心を支えているという知識の違いも大切です。そうでなければ、科学的理論を踏まえていない人は自分のこころについて、からだについての実感でさえ、自信を持って判断したり、人に話したりできなくなってしまいかねません。


 こころとからだは違うものだ。強い結びつきはあるけれども別のものなのだということはよろしいでしょうか。では、こころとことばはどうでしょうか。アンケートをとってみたら意見が分かれそうです。気がつかないけれど、実は、こころの深層でもことばが働いているのだと主張する人もいるかもしれません。見たり聞いたりすることもことばが支配しているという説さえあります。色についての言語体系が違って、色の語彙の数によって色の識別数が違うというのです。そのことについては議論が必要です。


 普段の生活で、ものごとを見たり聞いたりしたら、大体必要なことはことばで言い表すことができます。できごとや知識はことばの形で覚えておいて必要な情報を引き出すことができます。それもことばという形をとって。ことば、ことば、ことば。日常生活はことばに満ちあふれています。


 こころとことばがちがうという意見を主張する場合、なにかいい例はないでしょうか。名前を知らないものについての経験はどうでしょうか。外国へ旅に出てメニューの写真を指で指して注文し、始めての匂いと味。食べて味わいながら、これはうまいものだけど食べ物だとしかことばで表現できないものについて、こころは確かにことばなしでその食べ物を受け止めています。からだの舌と鼻を通してかもしれませんが、ことばはただそれを食べ物としか表現していない時、こころの働きが優位に立っています。


 結びつきの順番で言えば、こころとからだの結びつきの方が、ことばとこころの結びつきより強いと思います。現代の生活の中ではそうでもないかもしれませんが、自然な人間性から言うと、そうなると思います。


 別の区別もあります。ことばは結局、ただの人の出す音か文字でしかないが、こころはからだといっしょに実在しているものだというものです。だから、口では何とでも言えるが、ぺらぺららおしゃべりするよりも、不言実行だ、巧言令色鮮し仁だ、などとも。ことばは単なる記号に過ぎない、と。確かに、呪文を唱えて雨を降らせることはできません。遠い昔はそういう人がいたかもしれませんが。ものとはいえ生きているこのからだを動かしているのはことばではなくてこころなのでしょう。たとえ命令されても、意に染まない人の命令では人は心の中ではいやだなあ、いつか復讐でもしてやろうかと考えますね。


 嘘をつく人がいます。心の中で本当だと思っているのとは違うことを言うのですね。良きにつけ悪しきにつけ、これもこころとことばが同じではない証拠でしょう。正しいと思って間違ったことを言ってしまった場合も、それは全面的にこころの責任とは言いがたく、その人のことばを使う方面のこころの一部門がしでかした過失です。しかし、普段は多くの人は嘘をつくのはなるべく避けて生きていると思いますし、間違いは誰にでもあるにせよ、大体は大きな失敗もなく言葉を使って意志を表明したり、気持ちを分かり合ったり、情報のやり取りをしていますね。何かを集団で成し遂げるのにことばは重要です。


 そうです、ことばは人と人をつなぐ働きもあるのでした。こころは一人一人別のものですが、ことばはその別々のこころを持った人同士が共有しているシステムでもあるのでした。個人的に気に食わないからといって、あることばを消すことはできません。個人的に良いことばを発明したからといってそれを広めようとしても、たとえ広告会社のような力をもってしてもなかなか難しいです。


 分かりきったことを長々と書いてきました。これは説明ではありません。誰でも知っていることの確認です。からだの上にこころがあり、切り離せません。からだにある目や耳やその他の器官を通して出来事やものについてのあれやこれやを知ります。こころとことばは違うものですが、区別がつきにくいものです。しかし、事実や現実を伴わないことばが人の口を通して出てしまうことがあり得るように、ことばはある種の複雑な記号で、からだやこころに比べると二次的な存在です。ことばの良い面は、そこに人やものがなくても、あるできごとが古い過去の事であっても表現でき、自分で覚えておいてそれについて考えたり人に話したりできることです。悪い面は、ないものについてはなすことができるので、ときには間違っていたり、つまり言語がもたらす幻想というわけですが、悪い人が自分の利益のために人をだますのに使えたり、悪気がなくても間違いのもとになったりすることです。


 しかし、生物としてのヒトの適応戦略として、集団的情報であることばをもったことは、火と道具の使用以上に大きな飛躍だったでしょう。いや、実際にはそれらの複合的相互作用として捉えるべき事態が起きたわけですが、それはたぶんすぐに個人のこころのある面を強化し、ある面を押さえたかもしれまん。


 この文章の中にも、悪気はないけど間違っていることがたくさん入っていることでしょう。
 

あけましておめでたくない人が多いので、人類の滅亡について


遅かれ早かれ人類が滅亡することは科学的真理である。
そのことが分かるのも近代以降自然科学が発達し、宇宙の物理的概略が
明らかになったことによる。
遅かれ早かれ、そのうちに。時間軸上で確実なのは太陽の膨張による50億
年ぐらい将来の太陽の膨張である。
ただしこれは人類が50億年先に太陽系外に生存圏を確保できていれば回避
可能だ。蓋然的な滅亡の可能性と言ってよいだろう。
ここから現在にフィードバックした場合、地球近傍の宇宙空間の軍事的利
用、商業本位の利用は、それが健全な宇宙開発を阻害する可能性のある限
り、今のうちから避ける方向性が望ましいと私は考える。


より時間的に近い滅亡可能性は地球生態系の破壊であるが、
これにはふたつのシナリオが考えられる。
1)人類を含む高等動物が絶滅するが、植物以下の生物構成が残る可能性
である。これは、地球生態系の進化の機会は残る。
2)地球生態系全体の死滅。


現在の延長上にどちらのシナリオの蓋然性が高いのか私は知らない。
1)の可能性が残るうちは2)だと思い込むことは罪である。
詳細な科学的シミュレーションが急がれる。


いずれにせよ、現時点で地球生態系に、近代科学技術の見境のない軍事的商
業的利用が与えたダメージの評価が急がれる。
ダメージの数量的データに関して私は目下のところまるで不案内であるが、
定性的なことで思いつくことは様々ある。


<生態系のダメージ実績>
1)都市部の開発による自然破壊による復元力の低下
2)同じく都市部および肥大一次産業民を養うための大規模農地、牧畜用地
利用による復元力相対的低下。特に赤道地帯の熱帯雨林の減少
3)海洋の復元力の低下は、沿岸部の乱開発と産業廃棄物の汚染による、珊
瑚礁、マングローブ林の減少


<生態系へのダメージの原因>
4)土地開発
5)巨大産業による汚染物質
  <1>放射性物質(資源開発時、核実験、核施設(発電所)、廃棄物)
  <2>化学的有害物質(資源開発時のもの(土壌汚染)と使用済み製品
由来のもの)
  以上の物質を社会経済的文脈におくならば使用済み工業製品および消費
者向け製品などの廃棄物である。


普段の我々は、我々自身が原因できわめて近い未来、すなわち数世代から10
世代以内(百年から300年くらい?)に我々人類が<自己原因>によって
滅亡することを忘れているが、その可能性がいつもつねにすでに近い将来の
滅亡の可能性がゼロではないことに、絶えず注意を払っていなければならな
い。それなのに、どうして忘れるのか。
忘れてしまう我々とはいったい誰なのか、何なのか。


ここで、人類史を参考に人類を地球生態系との相関において定義する試みが
必要となる。


<起源:文化のビッグバン>
0)道具と言語の使用から始まった生産技術の発展と自然観や世界観(プロ
トタイプ:神話的世界観にもとづく自然=カミと共生して生きる活動)


<原始国家段階>
1)0)の発展に伴う社会集団における分業と身分制 原始国家の発生
2)1)の統制のための世俗的権威=王なり行政官なり、あるいは世俗超越
的権威=共同体宗教
  (あるいはイデオロギー)と集団間の資源の争奪競争機関としての戦争
組織=軍
3)2)を共有する・させるためのメディア(新聞以前の儀礼や教会建築な
ども?)


<近代国家>
4)1)〜3)の活動の結果として得られた専門的知識の蓄積を促進する学
問的理論体系と研究、
  および教育機関=大学、学校
5)および集団内と集団相互間の交易を行う経済組織=企業、
  自然との関係における土地利用(居住農業畜産用地・地中資源の取り出
しなど)=開発


こういう特徴を持つ生物種である人類のこれまでの物語、履歴を、これまで
のあらすじとしてまとめると・・・


自然界において、生産の社会文化的組織化により集団的に適応を果たした人
類は、しかしながら、生物としての共通の土台に立つのではなく、各地域の
文化圏におけるまとまりで(例えば21の地域の文化圏に分かれる。 
参考:「世界単位」から考える世界史」)競合しながらその多様性を展開し
た。ときには交易を行い相互に影響を与え合ったり、また、ときには隣り合
う異文化圏や遠方の文化圏の間で戦争を起こしたりしものだ。


前世紀の前半に起きた2度のいわゆる「世界大戦」で反省するかと思いきや、
軍産複合体は結局オーバーキルすら可能になり、ケネディを暗殺したり好き
放題やっている。
みなさんご存知の通り、今や、巨大国際企業が国家をも凌ぐ力を持ち、金融
資本家が国家も国際機関をもコントロールするようになってしまった。
冷戦時代には貧困国だけでやっていたやらずぶったくりの荒稼ぎ(もちろん、
これだけでも人類の健全な発展にとっていち早く是正すべき問題だったが)
豊かさを享受していた先進工業国の中間層の懐にまで貪欲に手探りを始めて
いる。


死がだれにでも訪れるのと同じように生物種としての人類もやがていつか必
ず滅亡するだろう。遠い将来に起こる必然的事態として私はそのことを受け
入れている。だが、現段階の我々の近代合理主義文明をリードする国際的巨
大企業が行使する科学技術の無節操な応用による経済活動が原因の滅亡とな
ると話しは別である。それは受け入れがたい。
やり過ぎを調整すれば回避できる問題に過ぎないからだ。
人類自らが原因となって自然生態系総体を傷つけ、自分の首を絞めるような
愚行を止めればいいだけの話しであるからだ。


去年ではあるが、すこし前に他界された米長邦雄永世名人は、「人間におけ
る勝負の研究」という著書で将棋の勝ち負けも対話であると書いておられた。
自分が盤上で指したい手筋を実現するには、かえって相手のやりたいことも
やらせてあげないと実現しないものだと。
人類は、そもそも人類以外の生物やあるいは「地球自身の幸福」を考えて行
動して来たのか。特にこの五百年ぐらいはどうか。


日本の棋界は確実に進歩発展していてその生ける証拠である羽生善治名人の
強さの一つに、対局相手に見えてない手筋を発見するディープな大局観の持
ち主であり、名人にしか見えない最善手が指せる、といった解説を聞いたこ
とがある。


いまだ20世紀初頭の世界観しか持ち合わせていないグンサンとかモンサンと
かのつまらないゲームに巻き込まれるのは本当に嫌だ。ゲームと言えば、自
分たちはゲームのルールを勝手に破りながら、相手にはルールを守らせ、文
句を言えない立場に追い込んでしまうというやり口が汚い。
儲けた金を貧乏な国に返し、今後は人権とか、公平にやるとか基本のルール
を守ることにすれば、また健全に楽しくより大勢が参加して続けられるはず。



これを書いていて、
「地球生命は自滅するのか ガイア仮説からメデア仮説へ」(ピーター・ダグ
ラス・ウォード)という本をみつけた。まあ、地球自体がそんなに長く同じ生
物を養いたくないと言うのでは人類はかなわないだろう。


福島第一原子力発電所の4基の原子炉の過酷事故が起きる以前から、地球生
態系の危機的状況について、私の知る限り、地球温暖化による海面上昇や気
候変動と生物多様性の危機が語られてきた。
2011年3月のあの事故以後、大量の放射性物質の環境への放出を知って、地
球生態系への人類が加えた打撃がどれぐらいのものか、いたく知りたいと思っ
ているが、まだそのような研究や科学者、専門家の意見を知らない。


とか言ってるうちに
福島原発事故放射能汚染:問題分析と政策提言」(世界思想社
こういうのをみつけたので、読んでみたい。

ものごとのもとをたずねるこころ


縄文時代の神話文脈を探求している田中基先生の講演に
接する機会を得た。和泉市弥生文化博物館の特別講演
である。


縄文時代中期、八ヶ岳山麓の多彩な土器群の図像学的な
意味の読み解きから、世界にひろがった最古の人類の神
話的思考と結ぶ世界像についての興味深いお話だった。
子を産む母なる女神の文様を配した灯り型の土器、これ
儀礼用に特別に作られたものであるが、表の柔和な母
なる像と、そのウラに恐ろしい暗黒の空洞を持ち髪が蛇
らしき顔をもつ、相反する二面性を備えた土器である。
別の祭祀用のつぼ型の土器では、産む女神と産まれてく
る子の顔が同じであり、再生があの世との循環である事
が示されているのだと言う。
当時の人々の世界像は、先史時代の他の地域の神話文脈
をも援用して、生み出す自然と死と破壊の果てにある別
の世界との循環として捉えられるのである。
古事記」や諏訪神社の冬の祭りにも通じる内容を伝え
ているものでもある。


講演では、これからまとめができたら発表するご予定の
「世界山」的宇宙観にも言及なさっていた。


その講演の余熱冷めやらぬ今日、わたしは、スキタイの
至宝展(大阪歴史博物館)に行って来たのだが、ここで
スキタイ人の神話の主神を中央によっつの柱を配した鉄
製の恐らく祭祀用の器具を見て、ああ、世界山と思った
ものだった。ここでは、鷲と獅子の合体した聖獣グリフ
ィンをあしらった様々な金細工の展示が目を引いた。
現在ウクライナとして国をなしている地域のあちこちの
民族の興亡が見られた地域であり、ユーラシア大陸の文
化複合についても学んだ。


平行して「物語の起源」(藤井貞和)のフルコト論を読
んでいるところである。漢字が日本列島社会に導入され
王権が新たな社会を組織して新旧の文化を統合する試み
の基盤になった「概念」として「フルコト」が読める。
そういう文脈でわたしはこれを読んでいるところである。


ものごとのもとをたずねるこころは、すこしやすらいで
いるかもしれない。

古書中毒


困ったことに堺市の南海高野線沿線の主要駅では
新刊と古書両方を扱う書店が商いをしておる。困
るのは古書の部で、価格帯の異なる古書を数日ご
トに入れ替えて、大量に陳列しているために、気
がつくと、比較的暇人でありかつ読書家でもある
私は、ネパール人の生徒さんがいる急行の止まる
駅、事務所のある急行の止まる駅、地下鉄から自
宅へ連絡する線への乗換駅、家族の入院先への迎
えの無料バスが来る駅で、つらつらと全部のタイ
トルを眺める癖がついてしまった。


ああ、こんな本があったのか、これは買いたいと
思うことがしばしばある。全部は買えないのがく
やしくなってきた。結構な愛書家であるが資金に
とぼしいので、二百円や三百円ぐらいの文庫や新
書をちょこちょこ買っては、書棚に並べて増量し
ている。そんな癖ができてから、幾星霜、数年は
過ぎただろうか。日本語や言語や哲学の良書に反
応していた時期があり、人類学に民族学民俗学
先史時代の本に食指が動いたり、現代の国際社会
の問題や環境問題の最低限な基本的な書物をピッ
クアップしたり、自然科学関係の一般向けの話題
書を購入したり、原発事故直後は新刊書点より古
書店の新書でチェルノブイリの頃から反対してい
た著者たちのめぼしい本をみつけたりした。


今、古代から前近代の世界史のあれこれに凝って
いる。人類はどこで間違ったのかを考える一環で
ある。この夏は、東アジア東南アジアに散ってい
き、今も憤怒や後悔でやすらがない魂らに憑かれ
たかのように、同じく、彼らに命を踏みにじられ
た魂らの燃え盛る怒の熱に浮かされるように、戦
争関連の本を集めた。その前のコレクションが海
賊だったのは、ますます行き詰まりを見せる人類
の難局を打開する理想を求めてのことだったのか、
それとも、アニメ「猛烈パイレーツ」のせいなの
か、今となっては分からない。


古書店に並ぶ雑本の中にきらりと光る本をみつけ
たとき、私は山で獲物のうさぎをみつけた狩人の
弓をきりきり引く瞬間の鼓動を感じる。買わない
場合のほうが多いが、帯やカバーの解説を一瞥し、
目次を調べ、著者のはしがきを斜めに読み、出版
年を調べ、気になる箇所を拾い読みしてから元の
場所へと返す。必要とあれば、タイトルをメモす
る。こういう検索にあった本は、私が買おうか買
うまいがどうでもいいんだと無関心を装ってはい
るが、やつらもホモサピエンスの手のぬくもりを
ひさびさに味わって実は気が気ではないことも、
こっちは分かっている。


買いたい本が多すぎる場合だ、困るのは。
オビタダしい本に溺れてもいまだ書物の所有欲が
枯れないビブリオマニアの端くれである私は、身
悶えしつつ、そのとき最優先のトピックの本に絞
り、それでもまだ財布に負担を強いる数冊の本を
厳選して、レジに向かう。
「いつもありがとうございます」と今日も言われ
た。これを、天からのきつい戒めの声なのだと聞
きつつ、恥を隠して「すみませんが、そのまま鞄
に入れていきますので」とカバーと袋の提供を断
る。


ちなみに今日の成果は松田寿男著作集の2〜4巻
だった。

大飯原発再稼働反対抗議のグルーヴがかなり来てたこと

大東亜戦争時の気違いじみた特攻作戦命令がなんで出せたのか
よく分からないが、こういう説がある。一億玉砕を唱えて戦争
を遂行して来た大本営が、ここまでやったのだから、もういい
だろうと国民をあきらめさせる材料として、若年兵士を生け贄
にしたという説。


あのときと違うのは、格段に末端底辺で殺されたり生活を破壊
されるものが抵抗する余地がまだあること。昨日までの「ゆと
り教育の成果が初めて、それもそんなふざけた教育しかしなか
った大人どもへの批判=復讐でもある」大飯原発再稼働反対グ
ルーヴデモはその余地のぎりぎり行けるところまで行ってみせ
た活動だったのではなかろうか。復讐の意味はあれ「最高の復
讐は幸福に生きることである」


あのときと違うのは、「陛下の為に死ね」と言われて無理矢理
自己欺瞞的に国のためだと納得したりしなかったりした軍人が
まず死に、ついで戦地の民間人が巻き込まれ、空襲によって「
内地」の民間人が巻き込まれたのに対し、今回は、周辺の民間
人の生活破壊が起こり、「拡散された目に見えない放射性物質
の挙動の捉えにくさ、環境と生体に与える危険に関する国際的
な隠蔽という情報環境」を利用して、勝手な安全宣伝がマスコ
ミによって流布されているおかげで、食品の流通を通じて致命
的な危険物質が拡散されている。


前回は少なくとも可視的な「死」を国政責任者の末端から民衆
は強いられているという関係を認識できたが、今回は、過度に
大丈夫というイメージの攻撃と、極端に危険を過小評価された
情報に圧倒されて知らないうちに、健康を冒され寿命を縮めら
れている。


総力戦という人工的環境に対し、破局的事故はなかったも同然
のとても無理な虚構。


おまけに、金儲けのスキームをごり押しして、官業一体となっ
た広域瓦礫処理計画が推進され、さらに無用な危険物質の拡散
までが実行されつつある。


ゆとり世代なのかどうなのか近過去の考証には手が回らないの
で間違っていたらすまん。


さ、い、か、ど、う、は、ん、た、い!
1     2   3   4
四つ打の1拍目だけ、音をみっつ入れなければならない。ここに
アフリカっぽいシンコペーションが入らざるを得ない。リズムの
微妙な揺れ、グルーヴが生じ、ポリリズミックに他のたくさんの
パーカッションをずらして重ねる余地が生じる。


隙間を見つけて潜りこめ!


john coltrane/Impressions
http://www.youtube.com/watch?v=me7P9qqBgwI

南の島の夢


こんな夢を見た。


南の島に着いて、イギリス人の旅行代理店の案内係、男性と女性二人と現地
のコーディネーターと室内のような丘のような所を歩いて上った。私はたい
へん満足し安心していた。
誰とも話さないが、意思の疎通は常時できていた。
私は住んでこそ居ないが、最初の訪問以来心の中ではこの島の人でもあるの
だ。ああ、懐かしい。
海が見えて来た。カッテージ風の4階建てに案内された。ベッドルーム兼居
間兼教室のようなそこのニートな装飾に満足し、説明を聞き終わったので、
数十年ぶりのこの島を記憶だけを便りにひとりで歩くことにした。
ゴキブリの集団が中くらいのスピードで移動しているのをみつけた。殺虫ス
プレーをみつけたときは押し入れに逃げ込むところだったが、全部に噴霧し
た。ひっくり返ってひくついているのを確認した。
記憶を手探りで呼び戻す努力をしながら歩いていた。
北方面に行った事がない。できるだけ、北へ行こう。
見覚えのない建物(前回の訪問後に作られたのだろう)の向こう側に、記憶
にある海岸が見えた。懐かしい。


名前を知らない島の若者と老人がのんびり作業をしていた。繁華街に来た。
ティーンエイジャーが屯していた。何か、前向きな、楽しくて為になるイベ
ントの準備中のようでもあり、もう始まっているようでもあるが、分からな
い理由がコミュニケーション不足のせいなのか、イベントそのものの性質が
そんなもんなのか、それも分からない。


夕方になると、危ない若者も出かけてくるので、そろそろ宿に戻らなければ
ならない。最初に案内されたコンクリートの建物の二階のドアの向こうは若
者向けクラブだった。薄汚れた背広の背中を見せて上がってくるのは日本人
の若いチンピラだ。仕事をしに来ているのだ。
自分が泊まるものだと考えていた部屋には後から来たイギリス人の子供のグ
ループが入って、もう寝支度を住ませていた。こまっしゃくれたイギリス人
少女が、不審者ではないかと警戒しながら、何の用か尋ねた。アレックスと
クリスはどうした、いまどこに居るか知っているかと、言おうとしたが、二
人のその名前が正しいのかどうかあやふやだったので、名前を間違えたら終
わりだと気がついて、黙って去った。


帰る途中でハワイまたは西海岸に寄り道。運転するのは母親か。のぼりの坂
道の途中で、渋滞に遭いストップ。すると坂の向こうから大型のトラックや
クレイン車などがぽんぽん飛んできて、車を飛びこえて行く、それが止まら
ない。何度も頭上に落ちてきそうになって、ああ、これでおしまいかと思う
のだが、なぜか後方へ飛去ってセーフ。警察の車が坂の向こうから来た。
しかし、通り過ぎただけで何も情報は得られなかった。


覚醒に近い状態で、平地に一本の木が見えた。次に海と青空と流れる雲が見
えた。見ている間は、それがどうしても、今、どこかの遠隔地のリアルタイ
ムの像だと思えてならなかった。二枚の絵が重なった。同時に7時の時報
聞こえ、目が醒めた。


分かった事
夢と言葉とは相当隔絶していて、ここに書いたのはほんの一部であって、本
当に見た夢とはかけ離れている。改めて、痛感した。
わざわざこれを書こうと思ったのは、今日の夢が素晴らしい幸福感があり、
それはこの南の島の夢を見たのが始めてでもあったからだが、現地の人との
交流部分がすぐに抜け落ちて思い出せなくなったし、島の環境、社会状況も
分かっていたのにそれらもすぐ抜け落ちてしまった。書いた文章は夢そのも
のの代理の機能すら果たせないつまらないものでしかない。が、これくらい
でも残しておいて、良い夢を見た記録として残したい。


ドリームジャンボが当たったら、あの島に本当に行くだろう。
その可能性だけがぼくが生きる意味の根幹にあるのだから。


相変わらず、あほなことを書いている。
南の楽園 パラオに興味を持った方はこちらの記事もご覧ください。
「2010-11-17 パラオ 珠玉の島での特別な瞬間」(記事一覧から表題を選択)



Ka Dim Sbedak! Palau Music! Belau Music! Homer

52年と約2ヶ月目の哲学的発作

カテゴリーの整理(存在論と認識論のはざまにて)


追加説明 
このリストは生きている身体と直接知覚
とそれらが織り込まれている自然生態系
というシステムと、言語、記憶、文化的
生成物などの人間界のシステム
この両者のインターフェイス部分につい
ての試論ですねん。

カテゴリー0(世界または包括的全体またはThe System:
       以下のA、B、Cの容れ物)

カテゴリーA (存在)
1 5感で感じられるもの/感じたもの <存在様態1>
2 自己と自己に関係のある<もの> 
2−1−1 生態環境;自然
2−1−2 生物個体(群) 
2−1−3 自己の身体を出入りするもの:
      食物、水、飲料、薬、毒、排泄物、ごみ
2−2 社会 
2−2−1 社会文化的文脈内の個人、衣服、
2−2−2 ひとの基本的行動
  (生命維持、食、性、けんか、贈与と交換、活動、運動)
2−2−3 自己の属す集団
2−2−4 自己の属さない集団
2−3道具 
2−4機械  
2−5 以下のカテゴリーBのマテリアライズされた<もの>
    (音声/文字など)実在するがそれ自身以外の何かと
     意味的に関連することを本質とする<もの>

カテゴリーB (記号または原基的模型)
1人の意識対象
   (外的知覚/内的知覚;その作用についての意識)
    =「現象」の基礎
2記号 
自然言語とその命題内容 New!!
   命題内容は1)関係 2)出来事 前のふたつに重ねて 3)判断
   判断は1)価値判断(善悪)2)意志決定判断
      3)審美判断  

上記「判断」分類の修正(2月21日)
      1)真偽判断 2)価値判断 (善悪/美醜/快不快)
      3)意思決定
4絵 
 (?5論理式、数式と幾何学的図形)

カテゴリーC (文化と象徴)
(Bを素材として、全体性をもつ<テキスト>を織りなし、
 カテゴリー0の内部に、A+B+Cの統合的世界像を
 描出もしくは描写するもの)
象徴については研究不足(直感的にはたぶん<存在様態2>)
自然言語の意味が、固有文化の偏差複合の積み重ねで
成立していることに留意されたし。
(パタン認識の必然性は論理的に導き出せない。)
1 物語:日常の出来事の再現物語 
(文化の原初的形態は出来事についてのおしゃべりだとする説)
2 テリトリーと固有文化:
 ある社会集団のアイデンティティ、統合原理などに関して
 繰り返される言説+地理的境界線+モニュメンタルな建築物
3 都市、耕作地、文化的に解釈された景観、
4 理論:世界構造に関する今のところの知識と全体像
     (時代ごとに変遷)
4−1 神話、宣託、儀礼、民話、うた、噂
4−2 宗教
4−3 歴史
4−4 科学:
    自然/社会/人間について観察に
    基づく資料と仮説による理論的体系
4−5 資料に基づく反証可能性を持たないが
    科学同様に社会的に意味のある理論体系
    社会理論、心理学の部分、
    思想体系:価値に関する理論、言説
4−6 政治的プロパガンダや商業広告から、
    教師や親父の説教に至る「為にする言説」 
5 書物、辞典、カタログ、

6 芸術作品、娯楽遊戯(ゲーム)、スポーツ、
  ごっこ、ジョーク 
  (ミクロコスモスからパズルまで)
   
カテゴリーD (一回しか起きない出来事と未来)