現代哲学史のヒトコマにおけるある理性の律動


ゲーデルと20世紀の論理学」のシリーズは、集合からやりなおして
論理につおくなろうと思っていろいろと昨日図書館から借りた基本的な基礎の練習が入っているものたちに比べると、お兄さん格のもの。(日本語の自由に主題を取り出せる利便性を悪用している文例です。わざとやったんじゃないけど、です)


編集方針を読むと一般向けの入門書と専門書への橋渡しを意図したものであるという。読んでみて、全体の関係が見えてないせいで壁だったところにドアが開いた。ひとつ。モデル理論とタルスキ真理論と意味論の関連。


歴史的背景のおさらいから始まり、不完全性定理ファシズムじゃなくて、哲学のところは、二つの話題、1)カルナップの構文論的言語と2)人の心と機械、こちらはチューリング


1)カルナップの構文論的言語
ゲーデルも関わっていた論理実証主義の要は、経験的に検証できる経験的知識以外は、言語の分析からでてくる意味によって真であるとすることがひとつ、そして、もうひとつは検証主義。


論理実証主義クワインの「経験主義の二つのドグマ」(50年代)によって崩壊するまでの命だった。

・・・と?
この分類、私にとっては生きておりますが、その後はどうなったのか?これは2巻のお楽しみのよう。90年代までのモデル理論(意味論)の話が入っていると2巻の前置きに。この箇所は明日読む予定。これは仕事(おかねにはなりそうもないけれども)に関わる重大なテーマ。


韜晦はやめたと書いたばかりなのでハッキリ書くと
命題と事態の分け方に関するその後の現代言語哲学
どう考えているのかに直接関わる。
ひとの言語を伴う思考の内容が事態と命題のふたつに分けられるという考えから私は抜けにくくなっている。
叙述内容に伴う「は」と「が」の区別は日本語学の分野でもすでに受け入れられているものだろうが、わたしの説明方針は、
この事を起点においている。


2)人の心と機械
人の心は考える機械チューリングマシンと同じか?ということころもノートにまとめた。


もし、主観的数学の形式化が可能であればという仮定の下で、
これがただしければ、ヒト=TMであるとよく言われるそうで、さらにもし、いろいろな仮定と推論をすっとばして書くけど、心は自分がどのようなTMであるか知ることはできないという話に。


「ボク機械。ぼく全部は計算できない。ボクなにもの?」となってしまう次第。この機械の略記、TMは、自分のイニシャルと同じ。
この箇所を読んだ瞬間背筋がぞぞ、戦慄の認知空間地震が。
そうそうは来ないキックだった。


たしか「ゲーデルの哲学」講談社現代新書でも、ゲーデル読みの人は理性の限界とかそういう問題に深入りするのだとか、そういったことが書いてあったように思う。


PKディックの発想がここから来たと言われても不思議な気はしないだろう。この本で紹介されている初の一般向けゲーデル解説本の時期も50年代であることはその可能性について想像を逞しくさせる。パトナムが、しかし、この書のゲーデルの不完全定理が人の心と機械との違いを証明するなんて言い草は単なる数学的誤謬だと切って捨てているそうだが、一方ゲーデル自身は・・・


この章は、さらに時間を下って出てきた可能世界理論におよび
エンターテインメントのような面白さだった。



その次の証明論は、ったくわたしにはまだまだ読めることができんくていらなくてもよいものだった。猫豚が真珠に小判ざ目。