61歳と10カ月、衰えるスピードを緩める努力

ひとつは、レッグマジック

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6月から始めた。時々サボる。下半身ができてきて最近自覚してきたのは、背筋が最弱で猫背になっていること。「1日13分、続けられるでしょう」ロザリーさんは言う。

ひとつは、勉強というか研究・・・。
あと少なくとも3回生まれ変わらないと読み終えられない文学・霊長類学・人類学・歴史学・哲学・数学・自然科学etc.の本類を生きている間にできるだけ消化しないと。
そこで、あらためて人類史の観点から世界史を軸に濫読をはじめることにした。ところが、いつの間にやら、本のブラウン運動現象によって入り乱れた本どもを、押入れや本棚の奥から、(ホコリを吸わないためにマスクをして)、掘り出す作業が始まった。昨日と今日でパソコンを置いてある部屋がかなり散らかった。
わたしは人類評論家を目指す。

『人類失格』・・・恥の多い人類史を送ってきました。なんて、ね。

基本的な視点は以下

 

<人類集団の恣意性>

20世期の構造主義言語学の基礎概念、F.ソシュールの「言語記号と意味」の関係の恣意性と同じく、人が観念的に依拠する帰属集団は、本来、恣意的な集団であることです。小は家族から、大は国家や国家共同体(EUのような)、文化圏(東アジア漢字文化圏ユダヤキリスト教文化圏、イスラム文化圏etc.)まで、生物学的な種のレベルの個体の集合をさらに部分集合に分け線引きする、その線には必然性がないことです。

必然性がないことを言い換えるなら、自然に上書きして歴史的・文化的・社会的に形成された集団意識に過ぎないということです。いま各々の集団が自己について観念的に保守しようとする社会意識を一旦、括弧に入れて、冷静に見直すべき時ではないでしょうか。

理由は、地球と生命の45億年の共進化分化過程で、岩圏、水圏、気圏、生物圏ができ、さらに生物圏を構成する微生物・植物・動物から、大脳皮質進化の道を進んだホモサピエンス中、唯一生き残った現生人類に至って、こやつらが(笑)地表面を自分都合で改変し続けた結果、地質年代<人新世>が始まって、いわゆる人間圏を構成してしまっているからです。
人間圏vs.それ以外の複数圏との葛藤がいやましますこんにちにおいて、人間圏内には、解決に有益な集団もあれば、そんなこと知ったこっちゃない集団も存続しております。

ここで「集団の恣意性」の厄介なところは、言語の恣意性を知的に理解した後でも、その恣意的でしかない言語の運用を人が自覚して知的に用いることができないことです。その限界を示す危機的な言語の使用が限られた小集団が目的を隠して行う大衆プロパガンダと言えるでしょう。これには、「集団の恣意性」とは正反対の「我らの敵」をやっつけろというスローガンが「恣意的集団全体」を実体化し、帰属者個人全体の感情に火をつけます。一度燃え上がったら、やるかやられるかの決着がつくまで治りません。
人類のほとんどが馬鹿、というのは、少数の賢い人が分かっているという点でまだ楽観的かもしれません・・・少数の賢い人が無力で声の大きい馬鹿の力が優っていた日には・・・(泣) 
ではサイナラ、サイナラ、サイナラ

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日本の古代関係

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先史時代人類

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つづき





⑵<「は」と「が」の使い分けの理論的な解き方と基底文の二元論>

 現代口語標準語を主な対象とする文法研究には、「は」と「が」の使い分けの理論が確立できていないという課題が残っている。
 筆者の研究は、この課題の一般的な解として、「は」と「が」の交差対立理論を確立することから始まった。
 確かに、「は」「が」両者の文中での現れの示す多様で豊富な機能は複雑精妙であるが、特段神秘的な要素などはない。
 一般的な解に至る第一段階の作業は、場合分けである。
 「は」と「が」の前後が同じ文について、1)入れ替えが不可能な場合、2)入れ替えが可能で意味が変わる場合、3)入れ替えが可能だが、意味が変わらない場合のみっつである。

 1)は次のような場合である。
「日曜日は友達が遊びに来るよ」副詞的な状況語につく「は」
「友達が遊びに来たことを知らなかった」修飾句内の主格と述語の間の「が」

 2)入れ替え可能な場合は次のような場合である。

A「雨が降っている」→「雨は降っている」
B「これはくだものだ」→「これがくだものだ」

 二つの例文が示すように、どちらも主節の主格と述語であり、前者に対し、後者は、文全体を有標化して、ある含意を付け加えている。しかしながら、有標化の作用は同じではない。

A「が」→「は」の場合は、文の述べている内容が確かな判断であることを含意するか、または、談話。文章内の一文の構成要素に題目性を加えた含意付与である。

B Aに対し、「は」→「が」の場合は、前者の文の判断内容について、後者の文では、直観的に自明であることを示し、多様な含意を生じさせている。例えば、教示、ガイド、時には、発見、感動、描写性、皮肉など。こういった含意の差異は、広義の文脈との合成によって生じ、意味論的かつ語用論的に特定される。

 この2)の入れ替え可能な場合の文法現象群の総称を交差対立現象と認め、その理論的解明が「は」と「が」の使い分けの一般理論である交差対立理論である。この理論の確立により、さらに、日本語の基底文の二元論の原理を導くことができる。
 
 3)の場合は、2)と同じく、主節の主格と述語のあいだにある「は」と「が」であるが、談話や文章の中で、何度も繰り返し言及される対象につく場合、2)のような文全体を有標化する効力が薄れる場合である。

はしがきのこのあとの見出し項目: 2~10

⑵<「は」と「が」の使い分けの理論的な解き方と基底文の二元論>
⑶<問題設定:主語+は?それとも、かつ、主題+は?>
⑷<二重コピュラ言語としての日本語>
⑸<基底文の二元性原理の主格と述語について>
⑹<基礎理論の体系性の利点>
⑺<先行研究との相違点・継承する説:三尾砂説と提題の「は」理論の統合>
⑻<三上説の問題点>
⑼<題目―題述構造を、主題―題述構造としたうえで、文の本質とすることの問題点>
(10)<外国人の視点とチンパンジーの視点>

(1)<基礎理論による「は」と「が」の使い分け以外の課題解決とパースペクティブの転換>

 これらの理論に関連付けられる諸命題は、基礎理論としての体系性を備えており、「は」と「が」使い分けの解決を示すだけではなく、別々に論じられてきた先行研究の諸説相互の関連を明らかにし、位置づけ直す効用がある。
 こうした成果に至るには、交差対立理論と原理の確立だけでは足りない。理論が迫る研究者の視点の変更、つまり、理論的パースペクティブの転換を伴うものである。
 そこで、先行研究の見直し作業が必要であり、並行して、この理論が開示する理論的展望を実現すべく、文の形式と機能を正確に把握する文分析の枠組みの改善作業が必要だった。例えば、益岡隆志(敬称略;以下同様)の階層構造理論の日本語の「命題」の構成要素と、本書の「命題」のそれとは異なっている。その元となる三上章の提題の「は」を巡る説も根本的に問い直さねばならない。
 また、二元性原理や交差対立理論について、必要十分な説明を尽くすには、先行研究が扱ってこなかった論題も複数ある。


 それらの第一は、文の意味論としての知覚や論理との関係、これには、「は」の論理的判断に関わる側面と「が」の知覚や直観に関わる側面の研究が必須である。
 交差対立現象を前提に、名詞に定冠詞・不定冠詞をつける言語と比較して分かることは、冠詞の区別によって、名詞が個別の対象を指すのか、一般的対象を指すのか示すところを、日本語は、「は」「が」の使い分けによって示していることである。個別具体的な対象に関する認識、それに伴い、対象を指示する名詞につなげる述語づけは、感覚知覚を通じた認識を通じて実現すほかにはない。この側面を二重コピュラシステムのうち「が」が担当している。
 「主題―題述」関係を、文単独の本質とみなし、理論構築の大前提に位置づけると、こうした「が」が担当する個別具体的世界と文法との関係、日本語という言語システムを使用し生活する人々と世界の現実、自然界や社会、自分自身の意志や感情に関する直感と文法の直接的な紐帯を回避する制限を作ることになる。


 こうした文の意味論には、次の第二の観点も要請される。
 第二に、文・文脈・話者の三者の相関理論、これは、「は」と「が」の使い分けの生み出す含意効果の機序の解明に欠かせない。これも、名詞に定冠詞・不定冠詞をもうけず、文全体を二重コピュラシステムにより有標化するかしないかという日本語の文の性質に由来する。
 第三に、文分析の厳密性を期するための方法論、これは、新しい説の論証だけではなく、先行研究において、実例分析から導き出した理論的命題の誤りを指摘し、修正するためにも避けて通れない。
 あるひとつの形態素の備える機能は、文の中でのほかの要素との合成として、把握すること。また、文が単独で担う機能であるか、文と広義の文脈との合成によって生じている機能であるか、見極める方法による分析の厳密化である。
 こうした研究の帰結は、原理を軸に相互に関連しあって一つの体系を構成しているので、これを基礎理論と称する。

はしがき

 本書は、日本語文の基本的な仕組みに関する理論書である。
 基本的な文とは、形式的にも機能的にも文の最低限の要件を満たす文を意味している。たとえば、「雨が降っている」「これはみかんだ」「みかんはあまい」など、主格と述語が命題内容を構成する単純な文である。このような文は、多様な展開形式をとる日本語文の基底として共通に見られるという性質がある。そこで、本書では、これらを基底文と呼ぶ。
 ただし、主格と述語が日本語文に共通に見られるというためには、論証が必要である。というのは、現行の日本語学の研究の前提に、このような見解を認める理論が存在しないからである。


 ところで、本書は、基底文を巡るふたつの理論、<「は」と「が」の交差対立理論>、および、この理論から遡行的に見出された<基底文の二元性原理>という説を提起する。
 基底文が日本語の文法を考える上で理論的に重要であるのは、あらゆる構文形式の原基形態であるとも言えるからである。それだけではなく、基底文に入る「は」と「が」の分析によって、「は」と「が」の使い分けという課題の解決が可能である。この理論を「は」と「が」の交差対立理論という。実は、この理論の発見が本書の基礎論的日本語文法研究の端緒となった。交差対立理論を、自然言語の普遍的側面から解釈しなおすと、個別の日本語文は、二重コピュラシステムという背景構造に置かれることによって、はじめて「は」と「が」の使い分けが十全に機能することを示唆している。