死の床の微分 

(こんなことやっている暇はないのだが、何故か作品ができてしまった。書いちまったもんは仕方がない。)


カウベルの音。牛はいない。喫茶店のドアの開閉する音。軽快な音楽。止まっていたなにかがまた始まった。唐突に始まるだけだ。終るときは分からない。このとりとめのなさが
数倍に取り留めなくなり、雲散霧消するだけだ。恐怖も何もない。ほどけていくだけだ。むしろ、恐怖はこうして、とりとめが着くときにある。張りつめる。感じなくなった四肢とその本体のどこかに、脳のヤツが筋肉を緊張させる電流を送ってしまう。


目を開けても何も見えない。外の音は何も聞こえない。試してみたがやはり変わらない。すでに自分が目を開ける事ができたのかどうかさえ分からない。体は横になっているはずだが、それも最後に分かったときがそうだったからという理由だけで、いまはヨコなのかタテなのか、分からない。感じられない。つながれた時は家族もいた。医師もいた。今は誰がいるのか分からない。つながれたときの怒りだけがあのときのままだ。しかし仕方がない。仕方がないと言ったのは私だ。生まれたときから現文明に従って生きてきた。最後も従ってみよう。ユーモアの精神が、選択には若干含まれていた。つながない選択もあったのだが。怒りまみれのユーモア精神がこれを選んだ。


からからからから、こんこんこんこんこんこん。ストラスブール音楽祭が始まった。脳のヤツが何故かNHKFMで偶然耳にしたブーレーズのパーカッションだけの作品を断片的に覚えていて唐突に再現する。スティックが木の板を不規則にたたく音に続いて、金属片をたたく音。びっくりするやないか!


つながない選択をしなかったことについて、残されたこの時間にこれほどまで繰り返し反芻するとは思わなかった。単にあれが最後の選択だったから、という理由だけで、もっとも印象深いせいで、自動的に反復してしまうだけなのか。それともより良く生きるということをテーマにしたくて、そのために反復するのか。家族ですら、哲学者である、あったというべきか?いや、今でも哲学者であるおれの言う事をまともに受け止めなかった。TVなどの方を信用した。


「おとうさん」


声がそのまま,聞こえる。外で呼んだのか、とも思えるが区別はつくはずだ。外界の刺激は分かるはずだ、ただし耳が生きている場合。耳からおれにつながっている脳の配線が生きている場合。やっかいなのは、生きているか死んでいるかについて知りようがないことだが、もうひとつの手だては,その音そのものにある。記憶のリアルな再現か、外界からの新たな刺激か、容易に聞き分けられていた実績に基づく、直観的判断だ。その直観的判断により、今の声は幻聴だ。幻聴だと思う。印象は薄れ、時の向こうに去っていく。二度と戻らない、なんて言っているうちに真面目な判断はできなくなってしまう。まあ、いい。またやってくるだろう。いや。待てよ。外からの本物だったとしたら、あの後、<さようなら>が続いていたら?つなげるのを止める合図だったらとしたら?きゅうっと膀胱が縮む。へへ。これは怖い。リアルに怖い。体温急激降下、しているはず。


そしてこういう心のドラマを利用して、元気になるしかないのが今だ。


不思議なもので、こうまで外界からの刺激が遮られていても、つまり視野が暗闇、聴覚野が詰め物にいっぱいの感覚、それでも、覚醒と睡眠がある事だ。夢まで見る。今や夢が唯一の社会生活となった。世界生活というべきか。やることはある。ハハハハハハ。やる事はある。夢の反芻だけではない。感覚を調べる事も、仕事にしているおれである。感覚を調べる仕事は、賽の河原の石積みのように、途切れてしまったら、おじゃんだ。また始まったら再スタートだ。やっていたことは忘れてしまう。蓄積が効かない。しかし、これは脳の計略に違いないとおれは考えている。だって忘れるはずのないモードの感覚だもの。脳のヤツわざと忘れたように、振りをしているんだぜ。


書く事ができればなあ・・・報告したいなあ。


こうまで何もかも奪われていては、、、。一番良い所を奪っていったんだ。残りも持っていきやがれ。


ジョニーは戦場へ行った。あの映画のだるま人間を内側から体験している訳だ。万一生還したら最低あの映画の解説者にはなれるな。夢はふくらむ、最終寝台者。落語でもやりますか。声帯が使えないので、記憶の引き出しが不自由ご機嫌をうかがいます。これ、植木屋はん、あんさん柳掛けはお好きか?そら旦はん、どんあもんでおすあろか。ここは面倒くさいので飛ばそう。あんさん、鯉の洗いは食べてか?鯉の洗い?鯉の洗い言うたら昔は大名魚言うて、大名の口にしか入らなんだもんでんがな、いただきまっさ。これ植木屋はん、あんた鯉の洗いは食べてか?いえ、旦はん鯉はもういただきました。そうか、そうか。ほな、あれはどうじゃ、青菜でっか、いりまへん。わて野菜嫌いでんねん。植木屋はん、それはあんたが家に戻ってから、大工の留さんに言われなあかん台詞じゃて、それじゃ、話しが進まん。つまらんな。


生きていた頃、と言っては今も生きているからまずいのだが、こうなる前に見ていた夢は、現状で見る夢と変わらないね。知らない女と気持が通じ合っている設定のぼんやりしたシチュエーションの夢があったが、あれが一番良かった。リクエストしているんだがな、思ったようには来てくれないね。


痛い痛い痛い痛い。医者は痛みは感じないと言っていたが、痛みそのものが分かっていない事があるのに、そう言えるはずがないとも分かっていたのに。うう。痛い。うう。何も考えられない。うう。分かっていて、気休めを言っただけだったんだ。


女はこれから渡る橋が高過ぎて怖いという表情だ。おれも怖い。落ちたらえらいことになるのは目に見えている。うっそうと茂る森が眼下に広がっている。途方もない高さだ。そんな橋なのに、手摺りもない。両端に橙色の円筒形の瓦を目印に付けているだけだ。寄り添って、手を握り合う。おそるおそる足を踏み出す。向こうには食事とやすらぎのある家が待っている。


光だ。いや違う。錯覚だった。


忍者としての修行を受けて、男も女も関係なく、生き延びたものだけが正式に
採用される。男女で生き残った場合、夫婦者として世間に出て行き隠密の仕事に就くので、生き残るということは、世間的には夫婦として生きる事にもなる。茜は、あからさまにその不合理について、不平を口にする。将来、誰と夫婦になるとしても、みんなケチ臭いしみったればかりだ、とか、どうせ仕事の足手まといにしかならねえんだからあたしゃ一人専門にしてもらうよう上司に頼むつもりだとか、仕事じゃなけりゃ、絶対やらねえよ、家ん中でべたべたしてきやがったら、殺すからな、などとと憎まれ口をたたく。忍びの術にかけては誰にも負けぬ自負がある。おれはこういうタイプは苦手だ。しかし、この茜に惚れているヤツもいるにはいる。楓は誰にでも優しい。これまでに脱落した仲間、つまり死んだ仲間にもそうだった。三郎が死んだときも、笹太が死んだときも、一晩中泣いていた。普段は元気で明るいし、困ったヤツをみつけて助けるチャンスをいつも待っているようにすら見える。そんなだからみんなが楓に惚れている。ただ、これが怖い。この厳しい修行で生き残れるのは本当の一握りだ。生き残りがゼロでもそれがどうしたという世界だ。楓は幸せに貪欲なだけなのである。誰と添うことになっても、男が一人の女として愛してくれるように今から保険をかけているのだ。そんなことを言うヤツがいる。そうと理性で分かっていても、この極限状況では好きにならずにはいられない。そうとも言っている。楓は本能のレベルで良いヤツだが、そんなやつの無意識ではそういうことになるだろう。おれたちはぎりぎりの命を生きている。男どもの本音はどっちでもいい、かもしれない。できれば楓が良いが、茜でもなんら不満はないというものだろう。ちなみに茜と楓は仲が悪いかと言ったら、そうでもない。忍者だから喧嘩になったら命のやり取りに発展することもあるが、喧嘩が治まれば仲良くできる程度だという意味だ。茜は楓の偽善性を暴く物言いをよくするが、楓も馬鹿ではないのでちゃんと言い返すことができる。


結局脳はおれなのか、おれじゃないのか、これが分からないままだ。そうそう。つなぐことを承諾した理由は、本来の目的ってヤツはこれを知る事だった。それが
分からない。脳がおれかどうかはもうどうでも良くなっているのだが、おれがなんであるのか、この探求は終っていない。・・・はずだ。私は明滅する交流現象です、ダッタかな・・・。電極をつなげてどの部位が活動しているか、研究者たちも細かくチェックしているのだ。数十年経てば、この状態でも外界とコミュニケートできるようになったかもしれないが。だが、その場合、人間自体が大きく変わったものになっているのかもしれぬな。


おれはまったく、このパーカッションのばか騒ぎをコントロールできないものな。
音が増幅し、またその音が増幅し、脳内が音で白熱することさえたびたび起こる。
意識の途切れや、睡眠と覚醒を、その区別もつかない中で、耳鳴りのひどいヤツが
空いた意識空間を埋め尽くし続ける。ジャット機か、と突っ込みを入れる。


再び、カランコロンとカウベルがなり、喫茶店のドアが開いて、軽快な音楽が流れ出す。牛はいない。日曜日のひとときコーヒーカップを片手にごゆっくりお楽しみください。と言うはかま満男の声。この後ゲストが来るかというと来ないのだ。それまで。これが寂しい。根源的寂しさを味わう。脳のヤツがなぜこれをするのか、分からない。しばらく泣くことを許してやろう。


自分が無意識的にある身振りをとっている事に気づいた。脳の運動準備機能の水準での話しだが、実際の手足の動きじゃなく、そのアクションを取る前の準備のための想像上の動きをやってみる機能が、今や私の健康体操になってしまっている。微弱な電気信号がもはや動かなくなった四肢にも送られている事を感じる。


ある身振りとは、変哲もない歩くという行為だが。歩いてどこへ行く。
何か用か?ここのかとおか・・・。


誰だと言われても困る。もう何も分からない。忘れ物を取りに帰っただけなのに、なぜそんなことを言われなければならないのか。証明する事なんてできないよ。


いっさい取り混ぜてお安くしておきます。電話だと相手の表情が見えないので、
セールスがうまく言っているのかどうなのかがよく分からない。死んでお詫びしますだって。こっちは真剣なんだ。馬鹿にするな。


うるせえ。ぼけ。死ね。
うう、うう、うう。
もういい、もうたくさんだ。
終わりにしてくれ。
お慈悲を。
接続を切ってくれ。


こんなことをいったいいつまで続けりゃいいんだ。
一年ぐらいにはなるんじゃないのか。長くて一週間とか言っていたくせに。心の底の底ではぽっかり浮上して、正確な経過時間を知る事ができるような気持がかすかに残っている。それはできない約束なのに。どうして心の底の底で、そんな気がかすかとはいえ、するのか。ただのあほか、おれは。・・・それとも・・・?


待つ
ゴドーを待ちながらのように待つ
太宰治の短編のように待つ
忍耐強く待つ
へらへらおちゃらけながら待つ
それが松の木だ


玄関のチャイムの音。は〜い。またこの夢か。玄関を開ける。視野を塞ぐ大きな荷物が置いてある。荷札から手がかりを得ようとするのだが、差出人も内容物も何も分からない。おしまい。


するりするりと逃げていく。
ついさっき何を考えていたかが、もう分からない。脈略なく思念が湧く。のこぎりで切断していたから。はっと、気づいてもとへ戻ろうとするが、もう来た道が分からない。進むししかない。そうしたらまた会えるかも。え、何の事?どうするつもりだったっけ。まあ、いい。次行こう。


何の珍しい事もない。これは健全だったとき入眠時に眠いのを堪えていたときに体験していたのと変わらない。思念のウナギ化と名付けていたあれだ。つながなけりゃよかった。接続なんかしなけりゃよかった。おれはこれのために人生最後のときを、その苦しみを最大にしてしまったのかも知れない。たったこれっぽっちの、こんな認識を得るためだけのためのために。


浅薄なしたり顔だなあ。ひとをなめきっていやがる。
買い物が済んだら、さらばじゃよ、君。二度と会うものか。
知り合いでなくてよかったよ。


なんだろうねえ、
ずいぶん遠くまで来てしまったような気がするんだがねえ、感覚と意識にはなあにも変化はないのだが、失神するたんびに分からない程度にちょびちょび運ばれていたかねえ。あ、そうだ。歩いたよ,かなりの距離を、確かに。
このあたりは存在論的な風が吹いているな。そんな気がする。


脳が活発になってきた。そのことで随分前に死んでいた事や、いつの間にか自動洗濯機に放り込まれてまわされていた事が分かった。億年ぐらい回っていたのだ。もう違うものだ。違うひとだ。


光だ。光が近づいてくる。
本当の光だろうか。