1月を振り返る

あっ!という間に一月が最後の日になってしまいました。仕事の方は去年撒いたタネがようやくカタチになろうとし始めています。といっても、いよいよこれからがふんばりどころであります。


一月を振り返るとちょうど前半はトーイック試験の追い込み、後半は言語哲学現象学に走ってしまっておりました。岩波文庫ゲーデル不完全性定理(の解説部分)を読んで、<20世紀初頭の学問の基礎付け>を課題とした諸潮流に棹さしてみたくなってしまったのでした。ついでウイトゲンシュタイン、フッサールなどの翻訳を脇に置いて、その解説本を少しばかり丹念に読んだり、実際の「形式論理学」の練習問題を解いてみたりしました。これ、全部やったら不完全性定理の証明まで行ける教科書なのですが。すごいですね。本当にできたら,本当にすごかったんですが。それからもう少し時間があれば、アメリカの50年代以降の言語哲学がどうなったかにも触れられたのですが、時間切れ。知っていた事の再確認と修正どまりでしたが、ペースを落としながらも、じわじわ新たな認識を加えていこうと思います。実際に研究している方々から見たら、「そんな古いこと」とか「そんな当たり前なものを」とか思われるでしょうが、「不器用なものですから」と言うしかないです。

自分にとって、新しく分かった事は、ゲーデルにも関わらず、現代数学は、基礎付けの問題は周辺的な過去の歴史となるような、更なる発展を遂げていること。ウイトゲンシュタインの「論理哲学論考」の叙述は、厳密な論証ではなく、極端に言えば、説明抜きで結論を並べ立てた
ものであること。論理、数学のコアでディープな専門家にとってはその行間を埋める読解が、刺激と神秘さからくる恍惚をもたらすらしい事。現代の論理学がどうなっているかは、「論理の哲学」(飯田隆編 講談社メチエ)を借りてきたので、それをこれから読むつもり。


日本語教育検定試験に関わるところではソシュールの言語理論ということになりますが、あのう、こんな事言うとそれはおかしいと言われるか、それは良いとしても、これから受験しようという人にすごく良くない話しになるんですが、音声学と教授法はさすがに準備勉強したものの、後はまったく勉強せず、(やる気にならんかったもんですから)ソシュールに慣れ親しんだセンスと従来の蓄積、マークシート第一世代の直感で、回答欄を埋めていった、それで合格したような気がしたのです、当時は。これはやっぱり書かんかった方が良い話しだろうね、実際は覚えてないけど、勉強したはずです。受験する皆さんは全領域をしっかりカバーしてくださいね。ええと・・・十数年前の一月まで振り返ってしまいました。


来月からの勉強の中心は、いよいよ「日本語に哲学的に迫る」に置こうと思っております。それは予定では最初に世に問うはずの実践的な内容の著書の裏付けとなる理論を強化し、よりターゲットに近い部分を攻めるためのお勉強です。こちらから見たら、本当に一月の後半はかなり遠い所を掘っていた、というか、そんな深い所まで基礎工事するんかい、みたいなもんでした。理想は最深度工事もじわじわちょっとづつやりながら、現場に貢献できる、結果が出せる作物も栽培する、と、なんだか建設業と農業がいっしょくたになってますけど、また希望を言えばサックスの練習もできて、通帳の数字も微増程度には上向いて、などもお願いしたいんですが、あ、ダメですか、そうですか。そりゃそうか。


しかし、ベケットに習って「死の床の意識の現象学」みたいな散文作品の構想が湧いて、書きたくなったり(不穏なテーマなのでどうかとも思いますが)、合間に高橋源一郎橋本治など、最近不足がちなキックを求めて、そういったご無沙汰だった作家さんに手を出したり、活性化の過剰な面も出ております。これをどう処理したもんかなあ、ですよ。それから、岩波新書の「日本語の歴史」も読みました。


馬なりに走らせてると、ばてて大幅に遅れるのは目に見えていますから、ここは手綱を引いて、着順はともかくレースにはしましょうってところですか。いえいえ、わたしゃ、ギャンブルはやってませんよ。ほんとうに。Brrrrrrrrrr.自分の人生そのものがギャンブルになってしまっているもんですから、そんな余裕はありませんって。


では、みなさん、2月号に続く!