Do you know what the proffessional is? Part1プロの条件とは、結果が出せる事


プロフェッションとは、オックスフォード英語辞典によりますと、特別な訓練と技術を要する職業となっております。専門職と訳せばよいでしょうか。私はこれに、結果を出さなければならないという条件を付け加えます。結果を出す事によって報酬を得、見返りにお客に満足を得させます。次のお客さんはまったくタイプが違っても実積がない人よりは選んでもらいやすいでしょう。結果の出せないプロというのは、形容矛盾です。実社会には存在しますが、私にはそのことが信じられません。そんなのを選ぶ客も甘いですが、極端に言えばごまかすだけの教師や騙す事を商売だと考えている学校もあります。


プロとは、最低限食べていくのに困らないように、腕を磨いて、手に職を付けた人の事だと思います。私は大学では、知識人となるか小説家になるために教養を身につける事にもっぱら専念したしたのですが、大学院中退後はとりあえず食うに困らない手っ取り早い方法をと考えて、いや、あまりよく考えずに、日本語教師になってしまったものではありますが。塾の講師なんかよりは面白そうだというようなその程度の安易な気持でした。しかし、今はそれで食うしか道はないおっさんに成り果てました。



さて、では日本語学校で結果を出すとはどういうことになるのでしょうか。


さきほど書いたように中身がなくてもお客が集まる学校もあります。ちまたの英会話学校にもそんなのがありますが、これは商売をしているのであって、正当な報酬を得るに値する十分なサービスを提供している学校とは違います。困るのは、学習者にとって、それを見分けるのが難しいことです。日本語業界であれ、英語業界であれ、なかなか淘汰されません。学校に経営は必要ですが、プロになりたい人が商売しかしない会社に入ってしまったら不幸になりますので気をつけましょう。


國弘正雄氏もおっしゃっていますが、そういう学校が、「誰でも、気楽に、すいすい、らくらく、楽しく、簡単に」英会話ができるようになる、などとという宣伝だけの学校が、一流新聞の広告紙面に登場しており嘆かわしい限りです。本物が追いやられ、偽物が通用する世の中ですから注意してかかりましょう。


学生に結果が出せるよう指導できなくても成り立っているいる語学学校があるのです。
どうしてこんな世の中になっちまったですかねえ。


では、本当に結果を出すとはどういうことでしょうか。
私は究極の理想を描いて、なるべくそこへ近づけようという考え方をとりますので、究極の目標としてネイティブと同等の日本語力をつけることと考えます。漸近線というのを思い出してください。完璧には無理でも、ほかに中途半端な目標を設けるより、よほどよいはずです。ゼロから、そこへ至るまでの道筋を思い描きましょう。ステップバイステップでどんなトレーニングを積んでいけばそこへ至れるのか。当たり前のことですよね。コースの終了までに階段を上らせる事ができたら勝ちです。それぞれの力量に応じてがんばってもらって、ネイティヴまでは行けなくても、能力試験ぐらいはなんとかないっています。それ以外はごまかしです。意欲を持続させるために階段の見せ方、演出には工夫が必要ではありますが。


国内の日本語学校ネイティヴである日本人に習う学習者ならば、早い人は、二年コースの仕上げ段階にはネイティヴと同等が射程距離に入ってきます。さらに日本の大学に四年間研鑽を積んだ人は日本語力もかなりのものになります。私の教えた方のなかには、国内ではトップレベルの私立大学の日本語学の修士まで進んだ人や(知らない人はあって話していても外国人だとは気がつきません)、経営学の博士課程修了目前、大手電力関連製作所、博物館の学芸員(普通の日本人の3倍速で、正確に、ジョークも交えながら話します)、国内トップ3に入る旅行会社に就職した人などがいます。社会人のコースからは、日本支社長になった人(日本語研修中は日本語だけの生活を貫きました)など。本人たちはまだ日本語が不十分ではないことにそれぞれ課題を残してはいますが、ある点では母語レベルがさほどでないネイティヴ以上になっているところもあります。


まず本人たちの努力と才能を褒めるべきですが、この人たちがゼロから大学に入るまでの成功体験を、私は教師として共有しました。このことをもって、私は自分とその仕事を果たした同僚をプロであるという事ができます。成功体験、あるいは実績がプロの証です。


ネイティヴレベルを究極の目標だとすれば、目標についてもう考えなくてよいということにはなりません。それを目指したとしても、これは長い道のりです。実は、教える側の究極の目標にはしていますが、最初から学習者とともにネイティヴを目指すという事には実際にはなりません。私は学習者には次のように言います。「日本語は皆さんにとっては目標ではなく手段ですから、○○△△という具体的目標を目指しましょうね」このとき目に見える私の責任範囲は、そこで掲げた具体的な個別の目標です。裏メニューにこっそりネイティヴレベルもちゃんといれておくのです。ひとつは親切。もうひとつは、最善を尽くすのがプロの誇りであり、生き残る道だから。


もし、これが入っていなかったら、先ほどの成功例の何人かは今あそこまでやれていなかったかもしれません。もし、を言うのは反則ですが・・・。どうしてこうまで回りくどく、書いたのか分かってもらえたでしょうか。能力試験1級を中心的な目標にした学校では違うのです。大学入試に実績のある学校で会話の流暢さなどについて適正なトレーニングを持っていない学校なんてのもざらにあるのです。専門的な見地から申しまして、四技能の偏るのは良くないことです。偏っている例は、日本の英語教育です。偏りつつ部分的成功を収めていたものが今では混の極み。ここも成功経験の蓄積が決定的に不足しています。


目標達成。これが原点です。そのための問題解決能力を身につける事。これがプロへの道です。


そこへ向けて、知識や理論、研修、学校のシステム、教科書や教材、毎日の授業、コースデザイン、カリキュラム、すべてが収斂しています。


気がついた事。目標の話しを書いたら、やたら「そこ」という単語を使ってしまった。