河合隼雄先生追悼 日本文化を考えるヒントをくださいました


「援交は魂を傷つける」ご自分のところに来たクライアントをそのことで説得しなければならなかったとしたら、どういう理由を言うべきかという自問自答への回答として、河合隼雄先生は、90年代半ば、雑誌「世界」連載のシリーズ<日本人の心の行ゆくえ>に書いていらっしゃった。さっそく朝日新聞だったかで、宮台さんに突っ込みを入れられていましたが、その議論もよく分らなかった。私は、両者の意見のよって来たるところや、自分がどちらを支持するかさえ、考えることもないままだった。援交という言葉の欺瞞性からして論じるに値するような社会現象とも思わなかった。どちらの立場も、構造分析という点では同じで、基盤を精神構造(非合理を含む)におくか社会関係構造におくか(なるべく合理的であろうとする)ところで行き違っていたのだろうかと今にしては思うのだが、河合隼雄さんの亡くなられたことを週刊誌の吊り広告で知って、そんなことをぼんやり思い出していた。


先週、よく利用する古本屋のワゴンセールで、河合隼雄著「母性社会日本の病理」講談社+α文庫をみつけた。本から出る波長のやや強めだったので手に取って、めくって、西洋人と日本人の深層心理の違いを図解したところを見て、買うことにした。というより本が俺を買えと主張していた。普段は悟性的判断で偽装したリビドーの代償行為で古本を買う私にしては珍しい現象だ。今、「悪徳日本語学校」を中心的なトピックのひとつにした小説のようなものを書こうとしており、日本人にとって悪とか、モラルとか、どうなっているのか、また伝統的にはどうであったのか非常に自分があやふやなもので、「日本」「倫理」をキーワードに図書館から本を借りて読んでいるところなのだが、(プラトン「国家」の内容メモもその副産物)、これはごっつ役に立つやんけ、と思った次第であった。今は「日本倫理思想史」佐藤英隆(東京大学出版局)で、神と仏を読み終えて、天から文明へ行こうとしている途中だ。それぞれに出てきた一時資料となる古典にあたらなければならん気がしている。


私が日本に弱いのは、小松左京先生的自然史としての人類観を基盤にしており、西洋哲学専攻でもあったし、コスモポリタンとしての自己意識が底流にあるので、ものごとを考える時に普遍的な視点でなにごとも扱おうとして来たからである。さらに付け加えるなら、あまりに広大、あまりに当事者としての実感の不安定なために私の探求は、少なくともこれまでは、浅く広くうろうろおろおろ、成果のないものだった。(今後あるような口ぶりである。)いずれにしても、外国人のお客さんに日本のあれこれで説明できないことがあるし、その前に自分が分らないままのことも多い。やはり戦争に負けてしまっていよいよ自国の伝統文化忌避と西洋追従心理に拍車がかかっていたのが、これまでのごまかしではもうやっていけないところまで来ているのかもしれない。特に「経済的目的」できている人が主流の就学生対象のときは<そんなの関係ねえ!>の世界だったのが、アメリカカナダオーストラリアのお客さんらには、もちろん語学的運用力養成が日本語教師としての私の責任範囲であるのだが、歌舞伎や能や武士道やカミカゼやハラ切ってせぷくうなどのエキゾチックジャパンについて最低限説明できないと、負ける気がする。それじゃ、中国韓国東南アジア南アジアの学生には日本文化の説明をさぼってきたのかと言われると、まあそうです。それに日本文化を中国人や韓国人の学生に説明することは割合簡単なことだ。ベースが同じで、元々そちら様からいただいたものがこうなってますで済んでしまったり、説明が要らない場合も多い。目に見えない習慣や社会関係などは、もちろん同じじゃないが違うけど感覚的に何となく分るところには行けたと思う。とはいえ、自分たちでさえ、分らなくなっている,親の世代に聞いても分らないことなどは勉強するしかない。どうせ勉強するならもっと早めにきちんとやっておけばよかったと思います。反省してます。すみません。


私の知的好奇心なんてものは、しょせん、日本には飽きたしい(ろくにちょっとディープな所を探ろうともしないで、退屈そうだし・・・)海外になにか面白いものはないかいのう、といった観光気分の海外趣味だった。そういう側面は今後も払拭はできないと思うが、それに人類の聞き何ぞという茫漠とした問題意識で人類史の観点からなにもかも見てやろう(そう言えば小田実さんも亡くなった。この人が「なんでも見てやろう」とすると、すくなくとも私の欲望は「なにもかも見尽くしてやろう」ではあった。
まったくその片鱗すら実現しなかったが。例えば、世界中の子供たちの不幸な現実や、その原因になっている大人たち、大人たちを繰る金力、暴力、権力、システムそのほかもろもろ、そんなことを知ってか,知らずか、富の偏在、過度な消費を享受するコンシューマーらの頽廃などなど)


ユング研究所での6年間の教育の締めくくりに、河合先生は資格認定の口頭試問で、セルフについて問われ、自分でも制御できない中で「セルフはこの宇宙すべてです」と答えたというエピソードがある。「この机もか」「そうです」それまで優等生であり、抜きん出た理解力を示していた日本人の若者が最後の最後で、ユングの教えを揺るがすような発言をし、指導者たちを驚かせた。結局いろいろあったのちに資格は認められるのだが、日本人の西洋文化の受容のひとつの参考例として、異文化交流に興味がある人にはぜひ一読を勧めたい話なので、わざと詳細は省いて紹介する。ご自分で細部を味わって読んでください。


(この段落は飛ばしてもいいですよ。)
さて、この本の読後、ユング心理学は、私にとってはフロイディアンでもあらせられる筒井康隆先生の著作を通して自然になじみのある分野ではあったのだが、まともに体系的に基礎をしっかり抑えることすらしていないことに気が付いた。フッサール現象学からハイデガーを経由して出た現存在分析とは相性が悪いようであるのも、知った。ユング派の集合定期無意識や、シンクロニシティなどをも扱おうとする心理学と、実存という一人で死んでいくことを運命づけられた個人を根拠に展開する哲学が相性が悪いこともあるだろう。単に哲学と心理学というジャンルの違いが壁になると言ってしまえた時期もあったのだろう。しかし人間にアプローチする理論的枠組みのひとつとして、どちらもそれぞれの優劣があり、補完し合えるというのが、21世紀に届いてしまった世代の我々にとってはノーマルな捉え方だろう。どっちも、ちまちま人の心に付いてうじゃうじゃうるさい点では同じようなもんじゃい。


河合隼雄先生は、日本人の自我(エゴ)=意識の中心と自己(セルフ)=無意識の中心について、西洋人の意識がエゴを中心に形成されるのに対比して、日本人の意識がセルフを中心にけいせいされるといった対比をしておられる。ここから、日本人の児童の自殺や個人としての主体性の希薄さや集団帰属意識や依存などのもろもろの説明の糸口になるものを提示しておられるのであった。またユングが切り開いた神話の分析(これこれ!私はこれが今もっとも興味をひかれているとこです。「神話学入門」の共著者であるケレーニイの神話は説明する者ではなく基礎づけるものだ、という言葉は今年最大の収穫だろうと思います)を古事記や日本の昔話に応用して、日本深層意識の中空構造や日本社会の女性原理などを導きだしている。これについては、図書館から借りてこれから読もうとしているところです。


日本の文化は、主に外から来た人とものとを受け入れてきた文化です。というか、誰もいないところへ分厚い氷を渡り、最初の一人とその家族とその仲間、さらに相棒の動物らとが踏み込み、それなりに暮らし始めたところへ、次々に波のように後続グループが追っかけ、さらに後続の人たちが大陸や半島の生活様式や文化を持ち込んでは改良を加え、受け入れたものをそれなりに消化吸収して独自の文化に育ったものと私は認識しています。その過程で、交流や争いや分裂や融合や支配や隷属や抵抗や・・・ま、いろいろ、あったことでしょうい。日本語を話すわれわれという意識をもった集団が、国として巨大な集団を形成しようとした時に採用した神話においては、性別が女性である太陽神という世界でもあまり例のないシンボリズムを採用しています。その後、仏教の中心的象徴のひとつである大日如来とアマテラスを習合しました。この辺まで私は理解しました。(ほかのことはまだよう分かりません。というか、いろいろ問題はありますが。)


悪について考える上でも、精神構造の弛い統合力だけでなく、コンプレックスやシャドウも手がかりになります。性格を外交的と内向的に大きく
二つに分けて、そのうえで、思考、感情(このふたつはアウトプット)、感覚、直観(このふたつはインプット)、2×4の8タイプというのも
参考になります。なんのことはない、昨今、書店で売れているいろいろな心理学的な本の元ネタなわけですな、これが。


日本語教師として気が付いたことは、漢字は輸入したのに、漢字の音は輸入しなかったこと。さらに文法さえ解体し日本語に読み直す技術を作った。日本語の方は、漢字の語彙を吸収した。今日の英語も、結局、音は輸入しませんでした。語彙を輸入しましたところまでは同じ。文法はいじりませんでした。今後はどうなるのか分かりませんが。・・・てなことを考えています。エクリチュールの分析から日本文化を云々するのももうんざりするほど出ているのだそうですが、日本語をとらえるのに、河合先生経由のユングが役に立つかどうかは分かりませんが、神話から昔話、日本の宗教、社会心理などには「使え」そうだと思うので、まず、私の日本理解の端緒となりそうです。今はそうするつもりです。


山口昌男先生の中心と周縁理論は皆さんごぞんじでしょうか。思えば筒井康隆先生経由だけでなく、山口昌男先生経由で20世紀の知の
冒険の中にユングも紹介されていたと思うのですが、文化を解くキーとして、自分で自分の頭を使って考えるのに使おうと思うことはこれまであまりなかったんですね。解きたい問題がなかったり、問題を解くキーの方を探してしまっていたりしたようです。もう一度、日本の歴史、文化史を勉強し直したいと思っていたのですが、当面の指針にようやくたどり着いたと思います。


ちなみに柄谷行人先生は、「日本精神分析」で、河合先生の<日本人の精神構造>の図式を取り上げつつ、きつい批判をも展開していますが、その歴史性を欠いているというもっともな批判には同意なのですが、私の日本語教師として日本文化の理解を確実にしたいという意図には、有用であるとは思っています。ちなみに日本語教師として日本文化を理解したいという気持をマジで持てたのは、プライベートの生徒さんではありますが、今は、丸谷才一をしてポストモダニズム小説だと言わしめた「ぼっちゃん」を読んでいますが、日本の現代文学をよみたいという方が現れたのも、小説もどきを書こうとしているのと同様、あるいはそれ以上の要因です。これからはこんな生徒さん中心で商売したいと思っています。またそのために当分、勉強による仕込みをします。このブログの記事も様子が変わってきます。


日本人の英語学習、日本国で主に行われている英語教育を見ても分かりますように、受け入れが主で、発信が従、しかもそのギャップはかなり大きい。これはユングのタイプでいうと、もろ、内向型です。日本を個人と見なした場合、思考、感情、感覚、直感のどれが優位かでいうと、う〜ん、少なくとも思考ではなさそうです。感覚が優位で、いざとなると直観で動く、感情の発露がもっとも苦手で、未分化なのかもしれません。で私自身も、このタイプのどれかと考えることでいろいろ気が付くこともあるのですが、日本文化も受け入れる頃は多い者の海外へ発信していくことは、やはり受け入れに比べたら偏って少ないと思います。浮世絵と漫画ぐらいでしょうか。


日本語教師はこの苦手な発信を担っている職業な訳ですね。



それにしても、いかに私があれもこれも欲しい型のディレンマに陥りやすいと言っても、
落込んだ期間も長かった。山口昌男先生の「文化の両義性」に文化の記号論的扱い方を学んでから幾星霜。
中島らも漢籍の素養がないと文章の表現力はないと言っていたが。
今回ここに書いてあることは、もうへたすると30年前には本で読んで分っていたことどもなのですが、
まったく発展させずにただ、「読んだ」「知ってる」で据え置かれたことです。
やれやれ。まあ、そのときが来たらと思って買い溜めた本は、あほほどあるのですが。