ぼけーっ・・・としている


弥勒の里国際文化学院、私的に<実在する日本一の日本語学校>と認定している以前の勤め先。この同窓会に参加して来た。



18年目に当たり、恒例の大学四年生主体、一期輪切り方式ではなく、歴代全学生、前教職員対象となった。



学校からは連絡の取れる限りの皆さんに連絡を取り、私も一部手伝った。



連絡が取れなくなっているため、少ししか来なかったけど、濃い再会がいくつもあった。新しい出会いもあった。



一度にたくさんの思い出が、なまなましく甦った。



うちに帰って、ぼけーっとして、いま、クールダウン中のところ。



二年後の二十年に向けて、連絡が広がり、もっとたくさん集まったら、いったいどうなることだろう・・・。



みんなといろいろなことを話し、胸の内でまたいろいろ考えた。


ふたつだけ書いておく。


ひとつは初代校長のがんばり。当時還暦をとうに超えていたと思うが、学校の麓からの山道の階段作りに始まり、毎年の卒業生向けの独力による手作りのアルバム、なににつけ率先して事に当たり、「がんばる」ので、他の教職員も、苦笑いしながら手を抜くことはできなかった。熱中して話し始めると顔がどんどん近づくので、相手は後じさりを始める。そして壁際まで追いつめられた。冬に遅刻者がおおくなったときは、寮まで起こしに来た。足の不自由な学生のために入学から卒業まで車で送り迎えをした。作業量が一番多かったのは、無論だが、初代校長としての存在の最大の貢献とは、「情熱を衒いなく示す」姿勢を貫いたことだと、いまにして思う。





おかげで学校に迎えた言葉の通じにくい学生を相手に、気持ちを伝えることができる学校が立ち上がったと思う。3代目の現校長のもとでも、最初に灯された温もりが続いていると感じられる学校となっている。


もっとも、当時の私は、細かいことにもいろいろと対立してい言い争いをしたが、この姿勢にだけは頭が下がった。当時は悔しかったが、それを否定するほど私もあほではなかった。また、言い争いはしても、感情的に尾を引くこともなかった。


小学生相手であっても、全身で気持ちを伝えるような態度で接することをせずに、口先だけで子どもを縛ろうとするばかりのいまどきの教師集団とは違うものが出来る下地が作られていた。


(ちなみに、あのサッチモ、つまりジャズミュージックの父、ルイアームストロングにそこはかとなく似ていた)



もうひとつは、学校で働き始めた当時の「恋」のことを思い出したこと。両方のことを知っている卒業生と他愛もない思い出話をするうちに、忘れていた事件から、忘れていた気持ちまで思い出した。まだ30ちょっとだった。その短い恋の終わりは、こうだった。相手の人が、自分自身の研究生活や、お相手の事情などで将来も結ばれることはなく、一年に一度だけ会うことで満足と言えるいい人がいると知ったことだった。思い出した。恋する苦しい気持ちを持つ能力を私も人並みに持っていたことを。


まあね、わたしゃ、芸術の道も、仕事も、どっちもろくにできませんでした、ですけどね。
ぶえ〜〜〜ん、とあふれる涙。


涙と言えば、交流会の最後で、在校生が贈る歌として、「帰りたくなったら」という初耳の歌を歌ってくれた。歌詞を模造紙に大きく書いてみんなで歌えるように、と広げられたのを見て、わたしは、(これはいかん)と気づいて、歌詞から目をそらした。いま、ここであれをまともに読んだら、歌ったら、大泣きしてしまう。歌が始まったので、歌詞は聞かず、メロディーに集中して、ちょうど今学習中の、このコードはなにかな、とか、スケールはなにかな、考えながら聞いた。


ふと見ると目の前で、元同僚のちっちゃな娘さん、まだあどけない女の子が、嬉しそうにオレンジをぱくついていたので、その口元を見てこらえる。これでかなり助けられた。


そのとき反対側の隣に座っていた卒業生が、ティッシュケースに手を伸ばした。涙腺を直撃された模様。普段は大人っぽい彼が、今や一流企業の正社員でもある彼が、どうーっと溢れさせていた。それを見たわたしも少しだけ滲んだ。なんとかもらい滲み泣きに止めた。


冷たいと思うか。そうではない。日々、こらえている,自分でも気づかないで密かに溜めている貯水池の推量がはんぱではないから、ひとたびダムが決壊してしまったら、たいへんなことになるような気がするんである。


きょうびの<泣かせもの>は、相等きつい。私はアニメのクラナドの風子で学んで知っていたので、そういったものには、他人といるときは避ける準備ができていたのだ。若い頃は、こんなものには平気だった。泣いているヤツを見て、けけっとほくそ笑むことも出来たのだが。


そういえば、今月はもういっこ、高校の学年全体の同窓会もあるんだった。
たら〜〜り。


赤塚不二夫先生のご冥福を祈りつつ。