日記を書く


時々,書いて筆力を高める努力をします。


このところは、宮崎駿祭りだった。「折り返し点」のあとに、「出発点」。本棚から取り出した「時代の風音」すでに92年の段階で、いまやっと日本のマスコミが騒ぎ始めたこと、その認識に基づく気分が共有されている。ドイツ、オランダでは、その時期から社会的に取り組みを始めている。ああ、そうだった。日本にいてはだめだと思っていたあの頃の焦燥が甦った。最後に「むし眼とアニ眼」で宮崎駿祭りは終了。


このあと、懸案の「は」と「が」に戻ろうと思っていたが、サックスのレッスン直前で、これまでやらねばと思っていたスケールとコードのあやふやなところを勉強し直すことを始めてしまい、本業に戻る前にセヴンスコード祭りが始まりつつある。


また、放っておくと地球生命と環境問題を宇宙的に見る祭りが始まりそうな気配もある。
古本屋にいくたびに、松井孝典や宇宙生命学の本などがよく眼につく。
あるいは、ワーキングプアの問題祭りを首を始めてしまいそうだ。


小松左京が、環境問題は乗り越えられると新聞で言っているのをネットで見た。人類は核による対立から滅亡に至る危機を乗り越えた実績がある。また、情報通信の発達により解決の可能性はより高くなっているのだそうだ。G8を宇宙で開催すればよい、と。一方、大貫妙子は、環境崩壊へのシナリオの速度が加速したとビッグイシューで述べている。この問題に関しては、そんな二つの情報を最近目にした。とにかく、冷静に理性的に。この態度を保つことを第一にしたい。


四半世紀前に社会人になるにあたって、個人的に受け入れがたかった様々なことが、一部の人たちの杞憂ではなく、マスコミレベルで、しかも最優先の現実的な事実として認められるべき課題として、浮上して来た。時代が変化を求めていることはもはや歴然としていると言っていいだろう。一人一人のちょっとした思慮と勇気と冷静な判断行動に、未来がかかっているのかもしれない。


久しぶりにキャッシュに苦しむ月末を迎えた。ぎりぎりのところで、ある生徒さんはATMに行く時間がなかったと言ってレッスン一回分払ってくれたが、まだ払わなうてもも良い分だったが、助かるので、いただいたておいたり、仕事のある生徒さんが急に残業で支払日にキャンセルとなり収入予定があとにずれたり、そんなときに思わぬ臨時収入があり、なんとか急場がしのげるだけは確保できていたり。嗅覚の障害で久しぶりに病院へ行ったら、システムダウンで会計が出来ず、支払いは次回の来院時で良いと言われる。いろいろなぐ偶然が重なった。なんとか、来月につながりそうだ。


嗅覚障害は、病院を変わってから3回目の診察で、匂いの感度を簡単に調べてもらった。バニラの匂い、ミントの匂い、乾燥した植物や木材の匂い、花の香りをなにか言われずに嗅いで見るというテストだった。バニラは、同定できており、正常だった時の名残りがあるもの。日常ではステラおばさんのクッキー店の前を通ったときにも感じる種類のもの。また、市販のアイスクリームにもある。正常だった時とのも違う。それから微妙な他の匂いとの組み合わせを許さない、一種類の匂いの独占状態になる。


ミントの匂いは、寿司に付いてくるショウガと同じだった。区別はつくが、元のものが何なのか、すぐに言えない。
乾燥した植物や木材の匂いも、区別はつくがなんなのか言えなかった。同定できていないので、記憶にも残りにくい。似た匂いを感じたら思い出すだろう。
花の芳香も上記と同じである。
(訂正:花の芳香ではなく、柑橘系の匂いだった。後で思い出した)


ほかに、生活の中でごくごくまれにリアルな匂いを嗅いだことがあった。臭いので有名なと言っても良いようなとある駅の公衆便所でのアンモニア臭、スイカの腐ったときの臭い。珍しく2回ともしばらく持続できた。
6月は、においがわずかに豊富化しているような気がしていたが、食べ物の味わいは落ちたような気がしていた。無意識のレベルではいろいろ嗅いでいるのではないかと思う。ときどき、ふっと一瞬昔の臭いが甦る気がすることがある。あまりにうっすらしていて、気のせいともしれぬものであるが。


意識に上る臭いの表現形(あるいはクオリア)は、過去の正常だったときの記憶に残る臭いとは大幅に食い違っている。両者が呼び合いつつ、接触すると、ふん、おめえさんとは話になんねえや,と双方が反発しいているところかと想像される。