団塊の世代の皆様。若年非正規雇用の超増加についてどう思いますか?


昔懐かしいアメリカ映画なんぞで、川をボートとか、板きれにつかまって流れていたやつが、その先が滝になっていて、あーれ〜と落ちていくという使い古されたシーンがあるけれど、いまの若年非正規雇用労働者というのは、まるまるジェネレーションごと、団塊の世代の雇用維持のために生存限界ぎりぎりまでたたき落とされたのだということが、今回、雨宮処凛著「プレカリアート」(2007)を読むことによって、国内問題に関心の鈍い私にとっても、だいたいは判明致しましたので、ここにご報告申し上げます。


財界の過酷な国際競争を生き残りたいという願望が、愚直に反映され実現してしまったようである。


どっかのとてつもなくステキに頭の良い、RUR野郎な官僚が書いたシナリオが、政治家および政治過程というフィルターを通ってモデレートされていたなら現実的になったかもしれないところを、そのまんま水で薄めもせずに原液のまま垂れ流したのではないか。


もし、そうでなければ、このような現実を招来しておいて、やったあ!、おれは良いことをした、なんて思っている、シナリオ書いたヤツと実行に携わったヤツは、労働力の再生産について、はたまた、人間は誰でも誇りを持って生きている動物であることについて、お目目が節穴さんであろう。


国際競争に勝つために! というスローガンで隠蔽した、自分たちだけうまい汁が吸える世の中が永遠に続きますように!と言う恥知らずで、無知蒙昧、目先のことしか目に入らぬ愚かさは、一般の人々にも感染し、今後世の中全体の更なる不健全さの蔓延へとこじれていくだろう。暴発的事件も起きているし。論理に飛躍があるが、当たってると思うので、先を急ぐ。


こういったとんでもない新たな社会システムの構築に向かう政権に、自らの首を絞める結果になることも知らずに投票した都市の若者層が「自己責任」論の胸の悪くなるような再版によって非難されるが、そもそもこんな政策は、官僚、大企業、政治家、そいつらにぶらさがっている会社員、大企業労働者の40代以上ぐらいのバブルの頃社会人だったせいで頭のいかれてしまった世代らのための人気取り政策だろう。


自分らの息子や娘は自分らで喰わせられるくらいの資産形成したから普通の家の若者の労働環境なんてどうでもいいとでも思っているのかな。、よしんば好意的に言ったとしても、知らない間にこんな状況になってしまっていたんだ、こんなんなるとは知らなかった、若い世代の「生活」を踏み台にして今の生活が成り立っているような状況になるとは・・・という言い訳はできるかもしれないが、もう今後さらにこのままでイイ、仕方が無いと、自分たちは「痛くない」「苦しくない」から黙っていよう・・・・と言うんじゃあ情けない。


引退し始めた団塊の世代の皆さんは、今どんな気持で生きて居なさるんですかい?権力や常識や大人の身勝手と戦って、負けて、過剰適応と言われるぐらい経済活動にいそしんで、こんな世の中になっちまったけど、頬っかむりして、後は余生を平穏に過ごそうってんですかい。海外へ移住なんかしてさ。


えと、ところでえ、ぼくわあ、59年うまれでえ、20代が80年代と重なるんだけどお、世代的には、上の世代と下の世代の間の世代なんだけどお、って、みんないつ生まれても、間の世代なんだけどお、ぼくらわあ、オーソドックスな学生運動には遅くて、オーソドックスな労働運動は形骸化しているように見えてえ、鈍いヤツがやるもんだと高をくくりーの、・・・で社会運動的なことはなーんもやってないんでえ、でもお、30んなるまでわあ、就職しないでえ、人間ではなく「人類」と人類以外のものの関わりを主題に、ものごとを考えるような仕事がしたいなあ、と思っていてえ、それからあ、文章をお、書くう、才能がー、あると思ったからあ、しょうせつかにい、なろうとお、していてえ、サルトルがあ、文章はあ、世界のお、抑圧されている人のために書くものだとかあ、ゆってたからね、その頃はあ、日本人は90%が自分は中流だと思うという、それはそれで気持悪い時代だったのでえ、ぼくわあ、そんな日本人はあ、みんなあ、ほかの工業国の人も入れてえ、農業国とか、資源とかをお、輸出してる貧しい国々の不幸の根本的な原因だとお、考えてえ、自然も破壊しているしい、森林バサイしたしい、フィリピンは全土が禿げ山みたいになったしい、東南アジアでわあ、買春ツアーなんかが当たり前だったしい、みいいいーんな先進工業国の人間たちは無知ゆえの罪人であるかあ、自覚のある本物の悪党だとオ、思っていたんだよ。そうなんだよお、そんな、中流でございといって自己満足に浸っていた人たちの子供たちがあ、こんな今喰えなくなったのわあ、親たちが誰の犠牲で食えているのかに無自覚だったことも、あるだろう。


犠牲になっている人たちが外国で暮らしている人たちだったから見えにくかっただろうし、また、見えない振りもやりやすかったったのだろうが、それだけで難しくなったら今度は国内の無力な子どもを犠牲にするような政策に手をつけちまって、恥を知らないやつらだと言わざるを得ない。(注、80年代中半ばに、当時10代だった世代を将来の安い労働力に仕立て上げるという目論みが生まれている。「プレカリアート」を参照してください。ゆとり教育の真の目的がなんだったかも、分かろうってもんじゃないか。)



ふむ。これではどうやら私は、橋渡しどころか上にも下にも、はからずも、けんかを売りかねない。


自分だけがイノセントな時代の犠牲者であって、どうつもこいつもマトモではないという、長年陥ってきた個人的な図式にはまりつつあるよ。
これが結論ではないけれど、今日はここまで。