問いと答え



フリオコルタサルの「追い求める男」は、サックスを吹きまくって答えを求めるアーティストの不思議な経験を書いた小説。
そのモデルは天才チャーリーパーカーその人。


私も、中学生のいつからか、ソプラノリコーダーでフイーフイとメロディーを奏で、なんとなく霊感を得ようと音をこねくり回した。風呂に長いこと浸かって、とりとめもない夢想に耽った。あることないこと、つまり、実際にあったことや、フィクションを文章に綴ったりした。


エンターテインメントのカタチでそれを発表することは、アーティストとして「追い求める」過程の中間報告のようなもんだろうか。それで「食える」人は仕合せだ。


数日前、仕事仲間でもあり、ごくたまに互いの考えを忌憚なくはなすことのできる貴重な存在でもある、ある方から、シュタイナーという学者、というより神秘家について、その思想とその人生のあらましを伺った。かなり強烈に高邁な人類の理想を追求していた方のようである。


私は私なりに、小松左京(私にとっての心の師匠)の、人類は宇宙に出るべきという、理想的目標設定は結構マジでいい線行ってるとおもってはいるのだが、それをシュタイナーの神秘思想は遥か彼方に超えているように感じて、頭がくらくらしてしまった。


また、翌日は、噂の米国の超巨大金融企業に勤めている人の友人であり、なぜか私の個人レッスンの生徒さんでもある人から、とんでもないことになっているようだという話を聞いたりして、数字の大きさを想像しては、また、頭がくらくらした。


その翌日は、サックスのレッスンで、師匠のガッツリした音でかつ追いつけぬほど素早い模範プレイに頭がくらくらすると同時に、楽譜の音符♪が近視と乱視と老眼の混ざった目にしょぼしょぼしたのであった。


今朝、イタロカルビーノの最初の長編小説「蜘蛛の巣の小道」を読み終わった。


秋であるから、ひさしぶりに芸術的な小説を読んだ。


リアリズムの作品と言われるものだけど、よく練った構成で、第2次大戦中のイタリアのパルチザンの話であるものの、戦争とは?、戦争をする生きている人間とは?それにからむ男と女とは? と、16歳のすれっからしの少年と言う大人でも子供でもない中間の視点において、作者自身の「問い」をうまく多彩な登場人物の形で配置した作品だった。


ちょうど、「生命をつなぐ不思議な進化ー進化論的人類学への招待」(内田亮子、ちくま新書)読後に読んで、中に似たような視点があたものだから、男と女/戦争と平和という問いの重ね方にカルビーノの人間へのまなざしの透徹したスルドさにいたく感服したのであった。戦争という行為が人間のかなり根っこにまでつながっているという辛い認識。


そもそも小説とは、あるいは物語とは、あるいはフィクションとは、ゲームと同じでヴィーチュアルな体験を楽しむ娯楽としての要素が欠かせないのだろうと思うのだが、であるがゆえに、登場人物に対して感情移入できるかどうかが芸術的効果の成否を握る鍵となるのであろうが、
子供向けのものを子供が読み体験する場合と大人向けのものを大人が体験する場合とでは、事情が違うのではないかと思い至った。


子供の場合、これから実際の世界でリアルな経験をする前の代替物として、いまだ生きていない現実の予行演習として体験してしまう傾向が強いだろう。


大人の場合、リアルな世界のうんざり感の補償、精神的嗜好品として読む傾向が強いであろう。


私なぞは、子供の頃の憧れで小説家を目指し始めたものだから、かなり良い年をしてまでも小説を子供のように読むものとして享受し、かつ、作ろうとしてしまっていたかもなあ、と気が付いたんですよ、皆の衆。


いや、しかし、今回、久しぶりに20世紀の文芸作品に触れて、読み方さえ忘れてしまっているのじゃないかと不安をもちつつ、読んでみて、すっかり自分の読み方が「大人」の読み方になっていたのに我ながら、さらに気が付いたんですな、これが。


ああ、もっと若いうちにこういう読み方ができていれば・・・とさえ考えた。


まあでもしかし、日本語教師であり、ある程度、ちょっと前までの現代小説に関する「教養」によって、アウトプットおぅ、可能な仕事として、学習者向けリライティングなんてこたぁ、できるかな、なんて。


生活基盤そのものが、この大変動期に入ってきて、どうなるものやら分からない状況ですから。


ちなみに今日のクローズアップ現代では、金融不安から世界同時不況に至り、そのビビッドな日本経済への今後の影響関連のレポートがあったのですが。ご覧になられましたか?


そこで、最後にゲスト解説の元日本銀行勤務の方に、司会の方が、これからの日本企業のとるべき道を聞いていた。


して、その答えは「真の競争力を身につけることですね」
司会者のまとめは「この混乱が終わった後の新たな世界を考えて、今から実行していくことでしょうか」風のまとめでありました。


石油から再生エネルギーへの、産業構造そのものの転換ってことだわな。


それはそれとして、わたしは競争力という言葉に疑問符を付ける。抜きつ抜かれつ、勝ったり負けたりでちょうどよいのであって、一度トップに立ったら圧倒的優位に立ち、できるかぎり続けようとするのはもうダメだろう。森羅万象との関係においてバランスを崩さず、誰かしらの役に立ち、こちらもいただけるものはいただくという生き方を「追い求め」たい。いきなり百パーそうするのは無理でも、少しでも近づけるように・・・・


私の日本語レッスンを取っている人の中にも、社会人経験数年を経て、次はこれまでの仕事とは畑違いだが、太陽電池工学の勉強をいちから(働きながら)始める計画の人がいる。