いや人類が終わろうが終わるまいが・・・


南極の氷が溶けようが溶けまいが、はたまた日本語が滅びようが滅びまいが、私は、現今の高度情報化消費社会システムの巨悪の追及の手はゆるめないのであります。


そのおかげで、生まれた時から日々の食糧を入手できててきたという、根本的な弱みを握られてしまってる私ですが、しかし、私は、そんな理由で、そんな自己中心的な理由で、このシステムを許したくはありません。それは甘いというものだ。そうではありませんか。
人とはコミュニケーションの出来ない動植物の皆さん!・・・に呼び掛けても、答えはない。しからば、オホン、そうではありませんか、このシステムのせいで食う物もろくろく食えなかったり、暴力に巻き込まれたり、平均寿命がかなり短かったり、圧政に不当な弾圧を受けていたり、以下略。


つまり、こういうことである。われわれの生を可能にしているシステムは、われわれというのは、このブログを読む可能性のあるもの全員を含む、高度情報化消費システムを生きる人々のことであるが、もはや、その存在自体が道徳的に大いに問題があると言うことだ。
私は、生まれてからこのかた、日常生活においてはさして自分が過度に倫理的だとは思っていない、思えない。その程度にこずるいところもある。そのことは認める。そうであるにも関わらず、このような意識を長年抱えて生きて来た心理的理由を自分では不安だととらえている。こんなのがつづくはずがない。長引けば長引くほど、恐ろしいことになるのではないか、という不安である。臆病からくるものだが、この考えを持つことは健全だと思っている。


こういう話にいまだに正面切ってまともに相手するのも『大人げない』的な感覚を持っている人間の方が大多数であろうが、ここまで読めば分かると思うが、そんな方々のことを私の方ではどのように見ているかは、もうお分かりのはずだ。
認識力か、道徳観念か、責任感か、なにかが欠けているために、罪を負ってしまい、さらに重ねていく人である。もちろん、私もその中に入っていることは言うまでもない。どうすればよいあのかさえ、分かっていない。自分は犠牲者ではなく、加害者である。こんなのを自虐的と呼びたくなる奴らもいるだろう。そんなことばに飛びついて、心理的な安全圏に逃げ込んでいられるヤツはおめでたい。


一蓮托生の不幸な未来が待っているに過ぎない。



と、こないだまでは、心の奥深くにそっと秘めながら(?)、そんな大それたことを考えていた私に、もうちびっとバランスの取れた視点を提供して下さった社会学者様がいらっしゃいました。


見田宗介現代社会の理論」(岩波新書


スーザンジョージの論点も取り上げて、高度情報化消費社会の人類史的レベルでの限界と、それでもほかのシステムにはない魅力の根源にせまった。
そのうえで、来るべき社会へ向けての提案が出ている。同じ岩波新書の「世界共和国」も、そんな志向性を持った本だったが、岩波さんて、こんな本を、もっといろいろ出して下さっているのかしら。私が不勉強なのね。
さすがは、私を二次試験で落として下さっただけのことはあるわ。


ああ、このお方が、このような著作をものしていらっしゃるとはつゆ知らなんだ。


興味のあるヤツは、自分で読め。ここには解説はない。情報化と消費社会というのは、この著者のまとめ方だ。


罪は、ありや、否や?