自然言語という述語について、または<原文脈>というアイデア


コンピューターのプログラミング言語人工言語であるがゆえに、それ以前のヒトが使っていた諸言語を自然言語と呼ぶことになったようである。


だが、ヒトが従来から使っていた言語は、どの程度自然に属し、どの程度、このヒトという知性と科学と様々な段階のテクノロジーと多様な社会文化制度を構築している現生人類の一部(?)に属するものかについては、よく吟味しなければならないはずだ。


その解答を見つけましたなんて事はもちろん私などが言えるはずもないが、


それを自然言語と呼ぶのはまずいのではないかと思うポイントをひとつみつかたかなと思ったことがあるので書いておこう。


というのは、それが相互主観的なヒトの形成した特定のグループ内だけで通用するものであるという点である。
たとえバベルの神話以前にヒトならばすべての個体に通じる大普遍言語が存在したとしても(あるいは潜在的
そのようなものが諸言語の基底に存在するとしても)、それは、群れとしてのヒトの全活動を支えるシステムと
ヒトシステムの外側にある自然というシステムの境界を隔てて、境界に接しながら人システムの側、内側に存在
しているという点である。


内部にあるにも関わらず、自然とのフロンティアとの境界と接するところに位置することから、それが優れて
自然的である錯覚を生み出しているのかもしれない。


しかし、直観優位な人間ならば日常的に感じているような、それの不自由と言うものもあるはずで、実情は、言語は
人の神経科学的認知行動システムの一部として機能しているに過ぎない「はず」でもある。
言語優位なヒト、言語優位な活動に始終従事しているヒトにはこのことは気づかれにくいかもしれない。


また、諸言語においても、様々な歴史文化的要因によって、直観機能への適合度の高い言語と、そうでない言語もあるかもしれない。


反対に、それを自然言語と読んでもよいかもしれないポイントをあげるなら、さきほど書いた、
言語は人の神経科学的認知行動システムの一部として機能しているに過ぎない「はず」でもある、ということが
問題なく認められるテーゼであるならば、そのようなヒトの全体的システムの一部としてならば、妥当性がぐっと
強くなる可能性はあるだろう。


今日、わたしは、そのような文脈で諸言語を分析するキーポイントとして考えついたことがひとつあった。


世界内存在としての、また相互主観的な存在としてのヒトの有用な内部システムとして、文の行使をとらえるとき、
それの機能や構造をつぶさにとらえるべき分析に当たって、<原文脈>という概念から出発してはどうかと
考えたのである。


<原文脈>とは、いかなる文であっても否定しようのない文の最低限の有意味性を裏付ける条件である。


身体性を有して世界にあり、別の身体性を有するヒトとの相互主観性を認め、また、言語主体内の
言語と関連する諸機能、ざっと並べると知覚、言語と知覚と内的志向性や内的感覚を記憶し、文を生成し、
文を発話し、文を解釈し、主体として行動したりしなかったり、言語体系や象徴体系に基づいてなにごとかを
希求したり、その他もろもろの雑多なことどもから、本質的に取り除くことの出来ない構造を<原文脈>と
私は今後呼ぶことにしたのである。


もしこれを読んで下さるような奇特な方がいて、
そういうものなら、先行する研究者が、これこれこういうタームで述べておられるよ、などということを
もしかして、ご存知ならば教えてださい。よろしくお願いします。



はい、はい。メモメモ。


追記:ここで書いた<原文脈>的なことは関連性理論にありそうですね。