心身問題とは違う二元論的問題


上のメモを書いた後に、続けて数日前に考えたことを思い出した。


心身の二元論の問題は、どう考えても、一元論的に捉えるべしと言う意見が強くなったのが、近代哲学と現代哲学をわけるひとつの分水嶺であろうと思うが、(心ー脳問題ととらえる表現も同じ


20世紀初頭の現象学(ドイツ)と分析哲学(イギリス)のふたつの哲学的潮流の対立という、今や歴史的エピソードのなりつつあるものの、
当時から戦後の思想にかけての西洋合理主義の分裂的危機を、人のもつ根本的な意識のデュアルシステムに位置づけてみるならば、


心身の対立であったものが、直観と言語の対立に現代では持ち越されたものであろうと、私は考えたのであった。


そして、両者はいずれそれぞれの本質を保存しつつ統合されねばならないだろうと言うのが、私の志向性であり、
また、現代の哲学および人間科学は、もちろんその方向で動いているに違いないだろうとは思う。
その場合、もちろん、相互に補完し合う局面、相互に疎外し合う側面、あるいは2重3重それ以上に絡まり合う
側面への考慮も必要なはずである。


はいはい。メモメモ。