記憶 今日一日分


今日は、午前中から午後まで、前回紹介した本の前の方をノートにまとめ、プライベートレッスンの仕事をしてから、ダンテの「神曲」を読みました。


述語と集合は、普遍集合が前提として与えられていれば同一です。
真理表で、論理代数と集合代数は確かめることができますので、代数系としての集合演算も、循環ではなく基礎づけられています。


ブール代数とは、論理代数と集合代数に共通する関係を抽象したものなのです。


日本語の名詞修飾節は、名詞の前に置きます。聞き取りのポイントは基本形の後ろに直接名詞が来たら、あ、そこまでが修飾節だったと気づくよう、トレーニングしてください・・・と注意した。


話すときには、わたしが・・・と一人称の後ろに「が」をつけるのは、(1)排他的な主語の場合と (2)修飾節の主格の場合と
ふたつありますね。


本屋に寄ったら、なにげなく手に取ったWar and Peace,Penguinが1000円で安かったので買ってしまった。Oxford 版の半値だった。


帰り道で、にんげんを返せ!と書いた峠三吉の詩文を思い出し、
奪われたものならば奪い返しもできようが、たたき壊されて修復しようのないものは奪い返すことすらできないではないかなどと考えた。その後にもここで生きているわたしたちが本当ににんげんとして生きてるのか、仮のにんげんのようなものに成り下がっているのではないかというような気がした。


わたしは、ヒトと言うことはできるが、にんげんと言う言葉は、かなり前からよう使えないのだが、関係あるだろうか。もし関係があるとしたら、ヒトからにんげんに向けて再生して行くには、なにをもう一度獲得し直さなければならないだろうか?


・・・というようなことを考えて、ホメロスは英雄について詩を書いたが、ぼくが詩を書くとしたら、活躍すべき世界を失った英雄について書くだろうなどと詩のような文句を考えた。


宮沢賢治は、心と宇宙の交流するトンネルを現生のどうしようもない壁に想像力で掘り抜いたけれど、ぼくが詩を書くとしたら、そんな希望の種が現実によって敗北する瞬間について書くだろう・・・


だから、帰宅してからはそんなくだらない詩のまねごと等しないで、神曲地獄編の第1歌と第2歌を読んだ。


暗い森に人生の半ば、35歳で、暗い森に迷い込んだ私ダンテは、夜明けの明るさに励まされて歩き始めたが、豹とライオンと狼にひるんでいると、ウエルギリウスがやってきて先導しようという。


わたしのようなもんが行けますか?と尋ねたら、ベアトリス、マリア、ルーシーが助けようと言っているから大丈夫と言われて、では
よろしくと改めて歩き出したところまで読んだ。


特定の宗教に深入りするつもりはないのだが、かつてあった普遍的な宗教的感情などには、ときには触れないと。論理記号ばかりだと
しんどい。


しかし、内井惣七先生が、論理学ほどアタマの鍛錬によいものはないとどこかで書いていたように、ぼくの頭の回転もすこしは滑りが良くなったような気がしたのは、普通の日本語や英語を読む速度がずいぶん早くなったような気がしているから。


ところで、論理記号の列とその説明をかたつむりのようにのろのろ書き写す作業中のお供は、今日はこんなのだった。


ARIA:惑星改造した水の惑星アクアと娘船頭さんたちの物語
その挿入歌
http://www.youtube.com/watch?v=6SDCv8Mt6wY&playnext=1&videos=ICxcSYfgnjo
この浮遊感を醸し出すコードとかスケールはどうなっとんのでしょうかね?