それでも地球は回ってるー予兆と複雑性への回帰(と日本語)


R カウフマンの「自己組織化と進化の論理」を読み始めた。
と言っても電車の行き帰りに読むだけなので遅々として進まないが。


2章「生命の起源」に入った所で、どうして生物の複雑性には下限があるのかという話になっている。


その前に「動物の本能」からシュレジンガーの「生命とは何か」、「インフレーション宇宙論」(ブルーバックス)に至り、「分子生物学入門」(岩波新書)の始めの方を少し読んでいたが、ここに「階層構造は単純な少ない要素の組合わせで最も複雑で多様な生成を可能にするものだ」というような記述があって、ここで言語に思いが馳せる。


「日本語文の階層性」は、研究者にとって一定の共有された枠組みとして機能していることが、いくつかの研究から見て取れるからだ。図書館から借りてきちんと読めずに期限が来てもう一度借りた「言語類型学から見た日本語」では、日本語の主語に関連して次の4つの用語を並べて一つの項目が立っている。


それは、主語、主格、主題、動作主の4つである。
私の見るところ、主語の概念が日本語においては文の直接の分析からは出てこないが、残りの3つは文の直接の分析に
おいて有効であり、これらの組み合わせパターンを抽出すれば、それらが有限であることが容易に分るだろうし、3つの上位概念として「主語」を規定し直す事も可能だろうという見通しである。


ポイントは顕在化している主語のみならず、潜在的なものを主語に含む視点をもつことだ。


平行して、述語の階層性ではなく、文の階層性を言うならば、<不定文>というくくり方が要請されるだろうと予想している。これが生成文法的な深層構造に入れるべきものかそうでないのかは検討せねばなるまい。そうでないと思うのだが。


「インフレーション宇宙論」からは、ビッグバン仮説だけでは説明できない「なにもないところから宇宙が生まれる」理由付けの仮説という、その内容もさることながら、画期的な説を出す際の論文の書き方についても示唆を得た。方法論を主張の前に置くのだ。


で、私が当社の業務として将来への展望ももってやって来た事の継続では日本語の研究をアウトプットできる形に作る事が目下の最優先事項である筈なのに、夏の息抜きからの復帰がいまだにならず、また、これまでにない大きな受注に追われつつ、生命生物に関する読書が始まってしまっている次第だ。


時間は四半世紀前に戻るが哲学科の学生でデカルトを読んでいた頃、予兆と予感に満ちたふたつの知的ムーブメントらしきものがあった。ニューアカとニューサイエンス。この両者はドゥルーズの複雑性の概念を媒介にして新たな
生命観をもとに結びついていたように思う。私も学問の統一的再構成などということを心理学科の学生に向かって学食でメモを書き連ねながら熱く語ったりしていたものだ。


ところがニューアカの一部は残っているがニューサイエンスは書棚から消えている。オカルティックな科学というくくりでレッテルを貼ってしまい処分する分類に入った。私には手に余る課題として処分対象になった近現代の日本とアジアの関係史といっしょに消えた。


今の読書欲求は、過去のあの頃のなにかをつかみかけていた自分の中にある予兆と予感のぶり返しに基づいているようだ。現在の世界はますます嫌な予想が実現している方へとばかり進んでいるような気がしてならないのだが、ドラスティックな相転移か、アヴァランチのどちらかが20年ぐらいで人間圏に訪れるという仮説でもってやっていこうかと考えているのであった。20年は根拠はないが、自分70歳になるので。(それまで生きるつもりだよ、この人は。厚かましい)


偶々予兆と予感というキーワードがふさわしのではないかと思う作品にはまった。「それでも町は廻っている」というものでアニメで見て面白かったので、原作を買って既刊全部読んだが、タイトルの「それ」は上に書いたような直観を(読み方によっては)含んでいるかのように感じさせる。完結していない作品であり、固まりきらないまま終わってしまうかもしれないが「何か」がある。


作品世界を構成する絵やコンセプトが、私も二十代後半頃までに読んでいた戦後昭和漫画のいいとこどりかつブラッシュアップに思えるところもあるので、そういうのと比較検討するにはまだ整理していない漫画の棚の整理をしないといけない。哲学科のプラトンをやってる先輩から「お前漫画買い過ぎ」と注意された事もあったけど、やっぱり、漫画も私には大切だ。


それでも町は廻っている」オープニング
http://www.youtube.com/watch?v=R2n29wa-4Fw


じゃりン子チエを彷彿とさせるぽっちり・・・