経験と知識


昨日友人宅を訪ねる途上において堺東駅堺駅を210円で結ぶシャトルバスに乗ったおり、電飾のサインが、時期遅れのネタで間の抜けたニュース、チリの落盤事故の一人目が救出された、二人目も間もなくなどとのたもうたあと、薬屋の広告で「経験と知識、<店名>」というのが流れた。漢方薬かなにかの店の宣伝だった。


経験と知識。


そうである。我々は、事態と命題の言語形式における文の二元論に至ったからには、ディスコースの二元論として、経験と知識の二元論にも思いを致さねばならなかった。


年内に完成予定という現状を無視した執筆予定の「日本語の「は」「が」のパズルを解く(仮題)」は、この二元論から始めることも可能である。ここから開始しないにしても、これに触れることは有意義であろう。


前回の記事、人造日本語教師「・・・」ちゃんは、広大なネットの世界と通じ、自分で問題設定して自分で解こうとする能力もあるから、恐らく究極の問いを問わざるを得ない状況にいずれは追い込まれるので、言語形式による規制である二元論から離脱する可能性を孕んでいたりするかもしれない。


ヒトの非言語的思考ってのも、あるね。経験でもなければ,知識でもないなにか。太宰治が「米粒に小さく書いてあるなにか」「ああ、あれさえうまく言葉で表現できれば」と悶々として書いていた。作品名忘れたけど。チャーリーパーカーが追い求めたとフリオ・コルタサルが「追い求める男」に書いたなにか。


言葉にならないもやもや。


Bunny Berigan - I Can't Get Started 1937 RCA Victor Records
「言い出しかねて」
http://www.youtube.com/watch?v=x0Uqdtzztmg