意識の二元論と「記号と再帰」(東京大学出版)


はてさて、意識を構成するものが、<(土台としての)マテリアルな神経系>が存在することを認めた上で、神経系そのものは意識ではなくて、神経系上で展開する<パルスの流れの安定したパターン>が意識である、という仮説を少しつめてみたい。


言語形式の基本構造が、命題を表す文形式と事態を表す文形式のふたつであることを手がかりに、意識の存在様式も二元論的にとらえられるのではないかと考えて、いずれこれらを接続する可能性を視野に入れておくものである、と。


時間軸に沿って様々に変化運動し、あまつさえ毎日睡眠を取ってブラックアウトさえする一個の「我」を、統合し自己同定する「我」。対象に働きかけ、自らも変化する「我」と変化を可能にする土台となって変化しない「我」。2つの「我」がある。


えーと・・・
「意識は常に何者かについての意識である」から出発する。
起きてある対象を意識したり、夢(見ているときだけでは浮上しないので)を起きてからもう一度回想したり、言語活動したり、いろいろなモードがありますが、知覚が特権的であって、いかなる意識のモードにおいても知覚作用の変形として顕現する、と。


知覚作用は外的対象についての志向作用であり、これをもって意識の始まりとする、と。
また、自己に関する反省的内的意識は知覚を能動的に行う意識の座への反省的(reflective)志向性の発露として形成される、と。


外的対象と並列して時空間を構成する諸対象の一部としての自己の身体が一方に存在する、と。(A)
また、一方で、そうした意識を構成する能動的な意識作用を統合している意識のノエシス的契機の座として我の身体
が存在する、と。(B)


前者の身体と後者の身体を結びつけて、「この俺Aはこの俺Bだ」「このわたしAはこのわたしBだ」という結びつける作用は、知覚作用成立の基盤となっているはずだ、と。


生まれたときからは、これはヒトにはない。ネオテニーである人間の赤ん坊は、まず母親のである確率の高い顔に並ぶ二つの目を最初に外的対象として知覚する。(これは今読むのが途中で止まってる「言語と身体」(滝浦静雄)から。)


これは、生物的基盤である神経系においては、あるモジュールと別のモジュール相互の神経パルスの送受信のやりとりの動的に安定した持続と考えられる。ベルクソーンの<持続>についての科学側からの解釈を与えるとこうなる。


1ボールが自分(A)に向って飛んで来るのを
 認識した。(B身体の機能1:感覚)
2あれが顔面(Aの部分)に当たると
 痛い(B身体の機能1:感覚)と
 予想する(B身体の機能2:思考)。
 (しかし、これは思考というより反射的思考。
  意志の伴わない演算処理?ー>3へ)
3身体(A+B身体)を
 動かして避ける(A+B身体の機能3:運動)。
4ああ、自分(A+B)は無事だった。
 「避けたおれは無事だった」
 「痛くない俺は避けた俺だ」
 「誰が避けろと言った」
 「誰だお前は」
 「俺は俺だ」


「記号と再帰」では、自然言語記号論的に整理して、プログラミング言語との比較をしている(らしい)。コンピューターはこの「再帰」がたいへん苦手。


再帰とは「自己の定義に自己を含むこと」(らしい)。


らしい、らしい、と言うてるのは、自分がちゃんと読めていないからなので、わたしが悪い。


さて、その中で、情報を二つに分けて、データベース構造的な情報と機能=つまり関数的な情報の二元論が出て来る。


出発点!  
      おれはおれだ <再帰的な>データ構造的基盤
      車が来た   機能=関数的(外的対象)
             <他動詞>
      おれは乗る  機能=関数的(運動)
             <自動詞>


ところで、いきなりだが固有名について、わたしは仮説をこしらえるアイデアがある。とはいえ、もう、誰かがちゃんと唱えているとは思うのだが、それは「このかけがえのない一回きりしか生きられない自己の認識さえ持つ」自己意識、あるいは「普段はそんなことは忘れて、おれがおれが、わたしがわたしが、と脳=身体の快感原則やら、社会的役割意識やらにとらわれて生きている」自己意識、または生まれたときに学んだ言語が指示する「おれ」「わたし」の意味に見合う実質を構成する実在・・・


こういった実存があってこそ初めて固有名が成立すると日頃から考えている。ただしそこから何事かを展開できているわけでは、まだ、ないが、と。


一方人類史に目をやると、今書いたことにはタイムラグがあった。二つのモジュールの結合による自己意識の発生は恐らく人類以前の動物とか魚とか、もっと遡って中枢神経系の発生までたどれる。


しかしながら、概念としての意識はソクラテスからデカルトに至って、身体と魂の二つの実体に分けて純粋な概念を形成するまではなかったとすると極めて新しい。素朴な自然的意識と、反省的な自己意識を自然史の一過程として読み直すのは面白い試みだと思う。動物行動学ローレンツはカントにも触れつつ、このような著書をものしている。一度図書館から借りたけど、読めずに返した。


また一方では、違う不可逆的過程をとった文化もあった。
仏陀の場合は、高次概念形成により意識の上に意識を重ねて強化する方向ではなく、それとは対照的に、生活上の実践において第一次の再帰を無化する道へ向った。わたしは詳しく知らないが、中観派の構築した体系は、そのための概念装置の精緻化とみなしてよいものではないだろうか。あるいはインドの仏教以外の思想体系も参照する必要があるだろう。さらには、他の文化圏の他の選択肢についても同様である。(付記:その後不勉強で恥ずかしいことだが、ヒンズー教多神教であることを知った。)


デカルトの「我」は<再「再帰」>的に出直しを図り、不可逆的に現在に至った自己意識は、ポストモダンを完成させて、もう一回、<再「再「再帰」」>を上手くやりおおせないと人類は滅亡するので、大変だ。


まあ、それは冗談だが、COP16 の体たらくはかなりやばいんじゃないだろうか。わたしはボリヴィア一国が反対したわけについて少し知ったので、(興味のある人は母なる大地の権利を主張した<コチャバンバ宣言>をググってね)今年のCOPがうまくいったような日本国内の報道に基づいて安心している人がいたら、それは間違いかもしれないので、ちょっと関心をもったほうがよいと思う。


そこで日本はなんか<やっちまった>感がある。日本史で習った「国連脱退」ほどではないにしてもそれに似ているような。


人類が滅亡するとは思っていないが、どのようなカタチで人類社会が今後存続するのかという決断と選択を60億人(もっと多い?)ひとりひとりのレベルで迫られている。時間が経てば経つほど選択肢が狭められ、多くの人が生きて行かれないようになってしまい、生き残っても生きているのが嬉しくないないような嫌な野郎ばかりの世界になってしまうか、そんな瀬戸際的曲がり角にあるようではある。


話はあらぬ方へ飛んでしまった。


今日紹介する動画は楽しい音楽ではなく、興味深いディスカッションへみなさんを誘います。


1「気候戦争 加熱する世界での生き残りをかけた戦い」
  デモクラシーナウ日本語版サイトより
http://democracynow.jp/video/20100708-3


2「地球工学は温暖化回避の切り札か、自然をあなどる愚作か」(同サイト)
http://democracynow.jp/video/20100708-4


こういう話題では定番の
THE END OF THE WORLD by Skeeter Davis