日本語の文脈依存性が高いことと「が」の活躍


今朝、「が」構文の実際面でのコミュニケーション上の有用性の一つについて思い至ったので、そのことを書く。
それは、主題または主語の省略と、この日本語の便利な機能を支える「が」構文の果たす役割について。日本語については久々のエントリィ。


まず、前提の確認。
私の研究において、日本語の文を事態文と命題文として分けて考えることから、「は」と「が」のプロトタイプ文における機能とその入れ替えた場合の意味付与を有慓化として見ることで、基本構文および、構文構成上の「は」と「が」の相互関係や派生的用法までを一通り説明したのであった。
(本年7月サイト上で公開。詳細は『日本語の基本構文と「は」と「が」』で検索してください。)


事態文と命題文という分け方は、日本語学の分野においては、これまではなかったもののようで、これまでの私の見出した範囲では述語の分類のレベルに類似の概念を用いていて、二元論的に述語を分ける観点があり、また、形式的に「は」構文と「が」構文を設定している研究者はいる。しかし、構文の意味論のレベルでは見当たらない。


この分け方は発見的な作業仮説として私としては上手く働いて生産性もあったと思っている。だが、理論的に検討した上で修正が必要な基礎概念だと思っていて、根本的な次元から考察する手がかりを求めて、もろもろの言語に関わる哲学的研究、心理学的研究を参照している次第である。


その検討作業のひとつに事態文といえども事実や出来事に関する命題ではないかという問題がある。真偽を問うことが可能な文を命題というならば、確かにそうである。したがって、私の言う「命題文」は、サイトに公開した「事態文」との二項対立的定義において理解してもらわなくては誤解が生じる恐れがある。したがって、将来的には定義の方を残しつつ改良し、用語法は改める可能性はある。検討する内容はその点についてである。


このような探求は一見遠回りのようだが、現代日本語の本質を普遍的に把握するためには有益だと考えている。


で、本稿の本題に入るのだが、
「日本語に主語はいらない」というタイトルの書籍が出ており、私の枠組みにおいては、このタイトルになっている文の主部は「主語は」の部分であるし、私の枠組みではこれは命題文の主語であるからして、要らないとはいえ、少なくともときには主語が現われることは認めても良いことはこの本の筆者にしてもお認めになるであろう。
そのうえでの主張の違いについてはのちの検討の課題としたい。


さて、私の立場は、日本語の構文の形式ではなく、形式と相関関係にある内容から、事態あるいは命題を表すどちらかに分けることができるという主張を含むものだが、(今日の話は文は命題を表すというように一本化しても結論は変わらない)「いらない」と言われる主語は文脈上自明であるので省略されていると考えている。


私の<命題内容>の構成についての考え方は、フレーゲ流に、文に対してあるXを変項とし、残りの部分を述語とする解釈を与えるものである。省略されたとはいえ、意味が通じる為にはこのXを指示する主題または主語を補足して解釈しなければ意味が通じない。命題を表現する文として必要な構成要素がそろわないからである。そして、省略された主題または主語が文章文脈上自明であることについては、長年の読解指導などの実践を通じて自ら経験的に確かめてきたことだ。


先に小生に都合の悪そうな例から見て見よう。


「今学校ではテストをしています。」


このような文では、動作主は明示されていない。主題は「学校では」の「は」によって自明である。主語の有力候補である動作主に当たるものを探してみても、テストを主催している学校側を動作主としているとは言えない。受けている学生を含めた関係者一同であることも否定できない。この文では動作主に関してはテストの主催者側に限らずに関係者一同を文脈から予想させるに留まっている。


これは受け身文で受動者を主語として立てて、動作主についての言及を避けることができるのと同じく、動作主体に言及しないで必要なことを述べる融通のきく構文である。日本語の人称にはフランス語のonのような不定人称詞がないが、こういった文は動作主に関して不定人称詞をとるのと同じ働きをしているようである。ここで同じというのは、言及されていない動作主をあえて補足して解釈を加えるときに不定の人称を表現しているとしてもよいという意味である。


この文が明示しているのは「今」と「学校では」という状況指示語の示す範囲について、「学校では」を主題として、今について、述語を加えて言いたいことを伝えている。


ひょっとすると、「主語は要らない」というより、


「日本語には主題は要る。ただし省略しても良い」


と言った方が一般向けのスローガンとしては日本語文の理解を分かりやすくするかもしれない。


私のように命題として文の意味論を考えて行く立場からは、主語を<抹殺>されてしまっては、手も足も出なくなる。頭が始末されてしまったら、手足の動きが止まるのは当然の理だ。


ちなみに、


「日本語には主題は要る」において


「日本語には」が主題である。またそれは主語ではないタイプである。「主題は」が主語である。


「ただし、省略しても良い」


この文では、実際に主題または主語を省略した。省略された語がなんであるかは文脈上自明であるはず。(1)主題は、同時に主語である場合と主語ではない場合がある。(2)<1>主語は事態文では動作主であるか、受け身文の受動主体である。<2>命題文では命題の中心で、普通は<主部>の位置にある。(やはり、命題文というラベリングは呼称として問題がありますね)


メタレベルとオブジェクトレベルの語彙が同じなので分かりにくいと思います。すみません。この箇所はあまり根を詰めてお読みにならない方がよいかと。


ここまでは今日気がついたことの前提への反論に対する予防措置である。さてここから今日気がついたことを、ようやく書くことができる。


自明な主語または主題を省略できること、もしくは、日本語の文脈依存性が高いこと、このことについて、私は、その主語または主題の省略は、文全体を意味あるものとして了解するには省略された主語または主題を文脈から補って常に解釈することが可能な範囲で行われているはずだという仮説を立てている。


文脈上自明というのは、目の前にあるものや人についての言及であったり、先に主題として提示されていることについて、続けて言及する場合のことである。無論、関連することについて言及する場合も省略可能である。


で、今日気がついたというのは、その仮説に立って、省略された主語または主題が、聞き手にとって文脈から補うことができなかった場合に、


「もう大丈夫になりました。心配しなくていいから」
「え?なにが大丈夫になったの?」(事態文)


「ほら、問題でしょう」
「え?なにが問題なのですか」(命題文、有慓化あり)


話者が省略した主題または主語を聞き返すときにも「が」構文が活躍するのだな、ということ。このことに気がついた。「主語は要らない」の話を持ち出す必要があったのかと言われればなかったかもしれない。ただ思いついた時にこの論への反論を考えていて今日の<aha!>体験というかエウレカ!につながったので、(風呂ではなくトイレだったのだが)平行して書いた。


例文等を見ると、当たり前のしょうもないことを仰々しく書いていると思われるでしょうが、それは私もそう感じておりますので、そのように感じたあなたは正しいだろうと思います。


ただ、しょうもないことも、私にとっては深い意味がある。そんな歌もあった。米国は1954年のヒットナンバー、Little Things Mean a Lotー Kitty Kallen嬢が切々と歌い上げます。俺の生まれる前の歌ですが、むかあ〜しNHK-FMで青木啓さんの番組で聞いたので知ってるんです。