心の働き:<大局観>と<全体像>の違い。


<全体像>は認識に関わり、<大局観>は実践に関わる。

まず前提


ある対象への注意の持続を集中というとしよう。


対象の種類の違いに応じて、対象把捉の様態も異なる。
知覚対象(視野における物、人、音、臭い、口中の食物などなど) 抽象的対象(多様な現れを見せる一人格、文化的対象である社会的役割、関係性、おのれ自身、趣味嗜好の対象、学問研究のテーマなどなど)


いずれにせよ、集中により、対象への定性的な了解が得られるわけで、それらの階層的関連付けが、<世界>の内容を充実させる構成要素として取り込まれる。ただし、身体の細胞が一定期間ごとに入れ替わるのにも似て、世界を構成する内容も常に一定というわけはなく変化するはずである。


その基底となるそれぞれが無規定な世界ー意識ー身体という構造の方は相対的に恒常性を保つ。

前提終わり


次は<全体像>の形成について


私は個人的な趣味で、<人類>という対象のラフスケッチを得たいと夢想し、生存に必要な<仕事>と<生活>の他の時間を使い範囲をできるだけ広げ読書している。複雑巨大であり、その性質は複雑怪奇、宇宙や地球に比べれば存在期間は短いとはいえ、個人が把捉するには長過ぎる歴史を経たこの<人類>という対象について、私はとうてい満足できる全体像を描くことはできず、ポイントだけをつかむと言っても、最低限の重要ポイントを押さえることさえ残りの余暇時間を死ぬまで使っても無理であることは明白だ。


<人類>という複合的でとらえがたく、私個人も微々たるとはいえその一部である対象。この対象の一断片を注意し、集中して認識する。たとえば<哲学>。別の一断片へ。たとえば、<歴史>。たとえば<自然科学>。たとえば<中東情勢>。たとえば<フィクション>。たとえば<国際社会レベルの問題>


こういった集中の前提にあるいまだ完成されざる<世界観>というものも個人の私の裡には既に形成されており、その<世界観>は未完とはいえ不可思議にも何らかの意味での<全体性>を備えている。


イメージで説明すると、大きな塊があって、黒い布に包まれているのだが、近くへ行ってその黒い布の一部分だけ剥がすことができる。ちょっと覗いた布の内側の一部が本体の全体像の手がかりにはなる。だが、これを繰り返してもいつまでも黒い方が大きいまま。後は想像するしかないし、その想像は止めても止まらない。そんなイメージ。


人類にとっての共通の意識の基底となる構造はどうであろうか。文化的伝統、教育、学問、社会制度や法体系、社会慣習と個々人の行動様式などなど。だが、人類と言うからには文化をさらに底で支える生物的基盤の共通性も押さえるべきだろう。


続いて、<大局観>の形成について


<大局観>に関連がある脳神経細胞が存在するという仮説が、日本の大学の研究が新聞に載っていた。それは棋士の脳の働きを調べることから得られた説だ。読み切れない局面で<次の一手>を決断しなければならないときに働くそうだ。これは新聞で読んだので、あまり詳しいことは分からなかった。


羽生名人の同じタイトルのご著書によると<大局観>は、「いかにひとつひとつの筋を読まずに見通しを得るかというもの」で「経験を積むことによって高められる能力」ということが書かれてあった。年齢とともに伸びるものなのだ。論理演算的処理の及ばない対象への美的価値判断をともなう直観の適合と言うべきであろうか。また困難な実践的判断を促される緊張という条件が、その良き発動には関わるものだろう。
また「一所懸命集中して考える努力の積み重ね」も<大局観>の形成には重要な過程である。


自分の場合、今は、<大局観>を研ぎすまし、筋の良い負けない手、あるいは、思い切って勝ちに行く手、あるいは最低でもその両方を連続して打って行かなければならないときだと考えている。また、現状はあまり経験が役に立たない状況のようでもある。むしろ経験が邪魔?そんな局面も現実には起こる。


そういう局面を迎えている51歳の人間が日本に居ることが理解できない人の方が多くてなかなか理解させるまでに至らない。50代の自由な個人は珍種、珍獣並みである。これには資本の裏付けがないとしんどい。だから宝くじにはぜひとも当たりたい。むろん<仕事>の拡大も考えなければならないが。


今年に入って、2ヶ月経過したが、私の趣味の活動は前年からの英語、英文学、新たにこれまで手を出さなかった種類の哲学、おととしからの続きの数学、先史時代の本など喰い散らかし、焦ってあれこれ手を出し過ぎの状態だったことは明白である。すべて手をつけようとすると、学習とトレーニングが必要な分野と素人研究を引き続き進める分野がある。ついに数年続けてきたが一次休止せざるを得なくなったトレーニング項目もひとつできた。


時間が欲しいと嘆きつつそれだけではどうにもならないので、どうしたもんかとアタマの片隅では、コレデハアカン警報をチカチカ点滅させながら、特定の項目に集中するという時間の使い方で今年の冒頭は過ぎてしまった。


対象として認識する世界の尨大さは途方もない。意識のスポットライトを当てることができるのは世界全体のほんの小さな断片の細々としたパッチのバラバラな寄せ集めでしかない。そのような問題設定は、<仕事>や<生活>からの逃避に陥りやすいことも否めない。


今日の結論は以下のようになる。


<全体像>というものは鮮明に象を結ぶものではなく、ぼんやりとしか形成されない。非常に少量の限られた情報をもとに、大部分が欠落しており、それを埋めるために想像や推論で補完するしかないものである。


比喩や象徴といったシンボルによる高度なパターン認識の道具もこのためには有効で、物語などはあくまでフィクションではあるけれども<全体像>の形成には有用なのであろう。


<大局観>とは、かくのごとく限界づけられた人間ではあるが<生きる>ための行動ーー次の一手ーーを最善にするための直観そのもの、この直観を助け、決断を下すその瞬間に必要な見取図の形成、すなわち過去の経験と将来の予想を自分の行動と関連づけて統合するヴィジョンの形成、それら全部のこと。


恐らくこの結論から引き出せる教訓のひとつは、<大局観>で用いたヴィジョンはあくまで行動する主体の生存目的によるものであるから、それを客観的に他者にも当てはめられる<全体像>と混同しないように注意が必要である、ということだ。


実生活においてすでに動いている集団は実践的な意味での相互の了解に基づいて活動しているが、そこで形成されているヴィジョンはその集団の実践目的のものなので、客観的に妥当かどうかのチェックが必要である。


ここに、集団の健全性を維持するための<議論>、または構成員の入れ替えの必要性が存在する。


物の順序でいえば、<大局観>が先にできて、余裕があれば<全体像>が生じて来るのであろう。それにふたつが一旦出来上がってしまえば、その後の自然な状態では両者は絡み合い分ち難く結びついていることだろう。


ただ<大局観>だけで生きている人には<全体像>を語る資格はないし、普段<全体像>の精度をあげる認識活動や情報収集も怠るべきではないだろう。また<全体像>の精度を上げる方に集中すると生き延びるための行動に問題が生じる可能性がある。科学者等は職業としてこれをやっているわけのものだ。


両方は自然にうまくバランスを取っているもののはずだが、個人ではできていても、集団においては意識的に組み込まないと偏ってしまう可能性が高くなると思う。





終わり