今日はちょっと違う話題を・・・


英語教師の集まりに参加する機会があった。
実は、訳あって、そんな集まりにも顔を出しているのであった。


日本語教師を英語教師と比較してみた。
ここで言うのは、
日本語ネイティヴが外国人に日本語を教える場合と
同じく日本語ネイティヴが、第2言語である英語を
日本人に教える場合との比較である。



まず、日本語教師を目指す人がよく言われることだが、
日本語のネイティヴだから日本語教師になれると思ったら
間違いだと言う言葉がある。


確かに、学習者の視点で一度自らのネイティヴ的日本語観を
相対化し、ゼロから体系的に再構築する作業は必須である。
(このような作業から、私はいろいろ気づかされたことも
あった。いずれ、「〜んです」とか、一度頭の中を通る
情報を日本語体系がどのようにベーシックなレベルで
整理しているか、について整理したいと思う)


しかし、第2言語を体系的に研究し、ある程度運用できる
ようにトレーニングを積めば、同国人の学生相手にその外国語を
十二分に教えることができるかというと、どうだろうか。
ちょっとした表現についても、ネイティヴなら少し内省すれば結論が
出ることにも、膨大な資料探索が要求される場合が多くあるなど、
限界がある。
その限界内でどの程度学生の必要を満たすことができるだろうか。


前々回のサンタクロースの喩えに関連するが、教科書を素材に
あれこれ広げられるようになるために、非ネイティヴの教師は
相当の努力を積み重ねて蓄積しておかなくてはならないだろう。
私は英語を教えていて、限界を感じて日本語教師になった
という日本語ネイティヴを数人知っている。


今日の集まりは、さる権威ある米国の機関によって日本国内では
最強の英語教育メソッドであると折り紙をつけられ、また、高い
実績を数十年重ねて来た機関ではあるが、運用力のあらゆる面を
カバーできている訳ではないと思うのである。
(公立、私立を問わず学校の英語教育のいまだにある「貧しさ」に
比べれば、かなり先を行っているので参加しているのだが)
運用力4技能のうち、読むと聞くというインプットについては
かなりのところまで行けているのだが、
話す、聞くというアウトプットの指導には限界があるのではないか
と考えている。


それは逆を考えたら、ネイティヴの教師は、インプットの指導が
弱いということになるのかもしれない。
(なぜか、について補足する。直接法が前提とする直観的理解は
 実は、母語による世界の分節から、そう簡単に独立することは
 事実上は不可能であろうと、私は考える。
 であるとすると、結局はターゲット言語と母語との関連付けが
 外国語学習者の内面で起きている学習過程の鍵を握っているはず
 だからである)


そうであるならば、
ネイティヴ日本語教師は、学習者に対し母語で説明できない分、
学習者の母語話者だったら到達できるはずの分かりやすさに
自分の説明が近づくようこころがけねばならないだろう。
そのためにやるべきこととして考えられることは、
例えば、読解スキルを上げるには、日本語解釈の法則を体系的に
整理しておかねばならない。(わしはもうできている)
また、学習者の母語の構造などについてよく知らなければないらない。


逆に英語教師は、ネイティヴなら「感じとれる」血肉化した表現を
自分のものとするべく、かなり英語にどっぷり浸からねばなるまい。
また、それを日本語を母語とするものに教える場合は、よく吟味された
対応する日本語を与えるなど、工夫を凝らす必要がある。


ひとつ、日本語教師としてのキャリアが英語を日本人に教える
場合の利点にも気づいたのであった。
つまり、上に述べた英語の対応物として学習者に差し出す日本語については
英語ばかりおいかけて日本語まで手が回らない日本人教師よりは有利である。
結構日本語をよく理解しないまま、訳語をつけてしまっている英語の先生も
巷には多い・・・かもしれない。


日本語をよく知らないで日本語教師をやっている人も多いくらいだからな。
チャンチャン。