パラオのM

パラオ共和国からMが来たときは、
相棒のIとともに、とても緊張していた。


宿舎から学校まで山道を20分ほど歩くのだが、
二人はずいぶん早く出発したが、あいだ、かなり
休憩をとり、永遠に動かないのではないかと
思わせるぐらいとどまり続けるのだった。


私は二人を追い越し、学校の近くの高い場所まで
来て振り返っても動かない二人を見て、
ネイティヴアメリカンが旅の途中、しばしば
身体の移動に追いつかない魂の
遅れを祈りを捧げつつ待つという話を思い出した。


校内を歩く初日のMは緊張のあまり、近寄りがたいほど
<顔が恐かった>。すれ違った後、お願いだから
食べないで、なんて冗談をつぶやいてしまった。


ひと月も経った頃だったろうか、郡の(ああ、
ぼくは郡に住んでいたんです)招待でコンサートに
学生みんなで行ったとき、Mはもう環境になれ、
調子づいていた。
演奏が始まるのを待つ間、暇を持て余したMは、
いたずら魂を発揮して、前の席の背広の男の人
(全然知らない人です)の首筋に、ふうっと息を吹きかけて
遊んでいた。


この帰り、MとIの二人は買い物に行くと宿舎に帰る
私たちグループと別れ、バス停へ向かった。
たんぼしかない見通しの良い田舎道である。
お互いに遠くに行っても姿が見える。
小学生のように大きな声で「さあよおーならー」と
手を振り、こちらにも返答を要求する。
私も「さよーならー」と答え返す。
しばらくすると、また「さあよーなら」
これの繰り返し、をやっていると、
はっ!
気がついたら、私は水路の側溝に横倒しに落ちていた。
水が少なくけがもなかったが、新調同然のジャケットの
ひじに穴が開いてしまった。


十年以上前の田舎の日本語学校の思い出です。


弥勒の里国際文化学院日本語学校
この学校は、不正や違法はいっさいありませんでした。
良い学校でした。
辞めてからのちに、ほかに勤めたいくつもの関西のひどい学校、
非常識、社会性に欠ける経営者どもと比べて、
良い学校だったとようやく思い知ったものです。