4コマ授業と5コマ授業の違い

4コマと5コマでは、1日ごとの授業をする感覚は
あまり変わらないのだが、コースデザインをする立場、
コース設計との相関で集団としてのクラスの仕上がり
を評価する目でそのコース全体を見渡したときは、
別物にさえ見える。
5コマ世界を知らない人は、4コマ世界の個人差を
大きく見て、コース設計の不足が見えてないことが
あると思う。


まず到達度が大きく違う。
当然走り出す前の到達目標設定から異なっている。
ある一線が越えるかどうかだと言い換えても良い。
ある一線とは、単に留学試験の得点力(以前ならば
能力試験のそれ)アップに集約される能力養成に
終るか、それを満たしたうえで、さらに大学、その後の
社会生活で通用する実力まで持って行けるか、の違い。


4コマだと、コース全般にわたり、語彙文型読解聴解を中心に
常に新しいことを入れて行くのが主な教育活動になり、
受験日程に間に合わせるコース設計になりがちで、
会話、作文に手が回らない。
なぜそうなるかというと、試験対策と一般的日本語力養成の
両面から考えて、必須の項目のうち、全部入れられないので
<どれをはずすか><どれにかける時間を短くするか>
という姿勢にならざるを得ない。


5コマだと、<必須項目をこなしつつ、あれやこれが追加できる>
というように時間に余裕が生じるのだ。


コースの順を追って説明すると、
初級の到達目標設定が違い、だから当然仕上りが違う。
(そこから1年半もしくは2年のゴールにも差がつく。)
関西のいくつかの学校の中で、一応ちゃんとした学校にも
お世話になったが、会話力の養成という点では不足を感じざるを
得なかった。


会話の違いは、正確さ、表現の適切さ、流暢さそれぞれを
十分トレーニングできていないことが原因だ。
これらの要素は個々の学習者のセンスや努力にゆだねられてしまっている。
いわゆるブロークンな日本語になる。日本語学校の教師には通じるのに、
外の日本人には通じない、という悩みを持ち、日本人と話せない学生も多い。
通じるけれども<話し方>に問題があって誤解されたり、評価が低いままに
終っている学生も多いだろう。


作文は試験に関連するからやっているが、会話でそれが
できているといないとでは<実際の運用>となると問題が生じる。
例えば、正確な作文を必要な早さで書くこと。
(これに加えて、初級で身に付けるべき<構造>が、現行の教科書では
 すっぽり抜けているせいで、就学生の会話力は社会人として通用する
 レベルに至っていない)
 最悪なのは、職業上の経験が培う偏見に毒された見方を教師自身が
 持ってしまうことだ。
 中国人と韓国人の両方の集団に(教師が主観的に十分と思う)指導を
 行った結果、明らかに会話が上手になるのは韓国人で、中国人に
 流暢さを求めるのは無意味、無駄と思ってしまうことだ。
 むしろ、流暢かつ正確に話せる人が例外だと思うこと。
 実際は、適切なフィードバックとトレーニングをすれば、改善できる点は
 まだまだたくさんある)

じゃあ、本来あるべき初級の会話とは何なのか。
現行の4コマ授業でも、習った語と文型を使って
言いたいことを伝えるコミュニケーションができるところまでは
行く。ただしそれが授業料を支払ってまでして身につけた会話力か
どうかというと、疑わしい。
(少なくとも、私がお客の立場で、その程度の仕上りしか期待
 できないのであれば、金と時間が勿体ないから、自分で学習
 する。本当に真剣に学習したい、いろんな意味で質の高い顧客に
 対応しようという姿勢が大半の日本語学校には欠けている。
 現状追随して、今日の混乱に至ったのももともと日本語学校
 甘い姿勢にも問題がある)


とはいえ、私が「理想の」と形容する学校もはじめから会話力を
身につけさせる教育ができていた訳ではない。
教科書を切り替え、聞いて話せるなかに、正確さ、流暢さ、
表現の適切さをクラス全体の学生に実現できる教授法の
体系が一定の到達点に至るまでにはおよそ2年ぐらいかかった。
初級に関わった教師の努力の賜物である。
実際にどう進んで行ったのかもプロジェクトX的なストーリーが
一本できるほどだ。
発案、発起人は私で、方向性までは見えていたが、具体性に欠けていた。
たまたま新人で入ってきた同僚の献身的かつ徹底した努力がなければ
実現できなかっただろう。


今振り返ると、このときはそういう概念もなかったのだが、
会話の局面で、<比較的正確かつ実際場面に有用なモニター>が
働くような訓練ができていたと言える。
つまり、初級修了段階で、文型レベル、場面レベルの自己修正が
実現できていたように思う。
むろん、モニターが修正すべき原話者の蓄積
(頭の中の<語彙と表現の辞書>の形成)が前提である。