うちの近所の亀さんたちの池が消えてしまった


近所の温水プール(夏に行ってたニューカレドニア堺市営とはまた別の)
に言った帰り道、いつもの池から亀さんたちが消えていた。鼻だけ茶緑色
の水面に出して、なにもせずひたすら水につかっている悠々自適の亀さん
がたくさんいた池が宅地として造成され始めていた。
ぼくは思わず金網に近づいて、心の中で「亀さんたち!どこへ行ったんだ。
無事なのかい?」とつぶさけやいだ。


彼らは貴重な存在だった。ぼくにとっては、なぜだか知らないが、ぼくが
哲学に出会ったころのことを思い出させてくれる存在だった。皆さんは哲
学に出会ったことがありますか。
僕の場合、それは、物語との出会い、SFとの出会い、ジャズとの出会い、
そうした出会いの後に当然の成り行きのようにして、出会うべく準備され
たものだった。哲学と出会う少し前に、ぼくは音楽を聴きながら、「この
音を聞いている「我」はどうして音の流れを聞くことができるのか」と感
覚的なぎこちなさと思考の出口のなさを縫い合わせた不可視の袋の中にい
る自分に気がついた。


音楽はそのままなり続けていた。


じゃ〜ん、それから数ヶ月後なのか、一年以上後なのか分からない。駅前
の本屋で立ち読みしている途中、なにげなく手に取ったカールヤスパース
の「哲学入門」(新潮文庫)どこにでもありどこにもないもの、だの、限
界情況だの、死のレッスンだのという言葉の匂いが妙な感じに包まれ、む
にゅっとした哲学の手が、おれの首筋に息を吹きかけたのだった。それが
哲学の実体との出会いだった。


それから哲学関係の一般向けの本を数冊読むうちに、木田元現象学」を
読んで、音楽を聴きながら不可視の袋に入った向こうへ行こうと「研究」
してくれていた先人がいたことを知った。
エドムンド・フッサール


池の亀神たちの一人にきっとフッサールもいたと僕は思う。


無事でいるのかい? そこも、これまで通り、なにもせずにひたすら哲学を
続けていられる場所なのかい。