分かるとは何か/おまけにコースデザイン資料公開と目標設定

『畑村式「わかる」技術』(畑村洋太郎)<講談社現代新書>という本を読みました。
著者は、もと機械設計者で、幅広く技術開発や事故の調査(専門分野の筆頭が「失敗学」)をなさっている方の書いた本ですが、その全体が、私が関わったコースデザインからその運用と改善などから得た基本的な認識に通じる事が多く、共感を持って一気に読みました。日本語学校の場合ですと、クラス運営から教務全般ぐらいを担当している方に参考になるだろうと思います。



これまでにないものを作り出す「創造」をテーマにしたことが、「失敗」研究を専門にすることにつながり、さらにその考えを進めていくと事象を理解する事、「分かる」とはどういうことかに至り、この本を書いた、とのことでした。冒頭の部分を紹介しますと、新しいことが分かるとはどういうことか、それは自分の持っているテンプレートとの一致であるとおっしゃいます。一致には構成要素の一致、構造の一致があります。そして新たなテンプレートを自分で作り、対象の構成要素を把握し、構造が理解できたら、そのモデルを「試動」(筆者の造語)してみる。こういう流れを基盤にしています。



日本語という複雑な要素と構造を持ち、人間的な実に多様な側面と相互作用するシステムを私たち日本語教師が<教える>うえでも、学習者が<分かる>ことの根底に同じ事があると、私は思います。同時に「限られた」時間や労力で<教える>側のシステムの設計にも直結するポイントです。
私は常々、筆者が言うテンプレート的な事を、取りあえず<学習者の全ての既知のこと>と捉えて、授業の作戦を練る事からコーズデザイン作りまで基本にしてきました。利用できる手段は卑怯でも何でも伝わればよいという姿勢でもあります。中でも、学習者の母語が<既知>の中心ですが、
日常の生活経験や典型的なシーン、また、互いに同じヒト同士である事なども役に立ちます。



第1章の「分かるとはなにか」の中には、直観と直感のちがい、教科書や学校の授業が分らないつまらないのはどうしてか、など現代社会の教育の問題にも参考になる示唆が入っています。昨日この本を買った書店で、私は、香山リカ著「なぜ日本人は劣化したのか」などという新書の書名を見つけ、見てはいけないものを見てしまったような気持を抱きつつ、おそるおそる目次を開きました。そして、多岐にわたる論点から気になる点だけ立ち読み、ここまで来たかと嘆息しました。それにしても、たかが日本版バービー人形ごときに、こんなことを言われてしまうところまで堕ちてしまった日本人ですが、「分かる」とはなにか、から初めて見る事ではなかろうかと思いましたよ。ああっ・・・香山センセ、立ち読みだけで買わなくてすみません。(ええと、最初の本稿掲載日の翌日、今日買いましたから・・・5/10)



そんなわけですから、皆さんも書店で手に取って、ご自分で読んでみてください。あまり中身を公開するのはよくないでしょうけれども、東大生の3割は入試対策のテンプレートを丸暗記する方法で入学してきており、このタイプのヒトは、新しい事を学ぶにあたり自分でテンプレートを作成する能力経験が弱いのだとか、熱力学は古典的方法で、統計力学がより洗練され理にかなったものなのに、いまだに学校では統計力学をちゃんと扱ってなく学生たちは<半可通>のままだ(形式論理の落とし穴とは)とか、具体例のいっこいっこもとても役に立つ刺激になりました。



川喜田二郎著「発想法」(中公新書)をも、創造的仕事術を扱った類書としてあげておきますのでね。



ひさびさの更新で、これだけではネタが少ないので、教務の要、日本語学校の2年間のカリキュラムを公開しますので、見たい方は見に行ってください。
(ここにURLがあったのですが、ホームページ改訂のため、ページごと廃棄になりました。すみません)
刻みが大きく概要しか掴めませんが、ちゃんとした日本語学校ではこれを実行し成立させています。
日本国内の英語教育を見るにつけ、訓練されたネイティヴが体系的に教えるという条件の外国語教育は日本語教師経験者にとっては当たり前ですが、よそでは現実には難しいことよなあと、最近、思いを強くしております。
ついでに日本人向け英語教育では、
http://www.7act.net/levelcheck/index.html
ネイティヴが教えて、それなりのレベル設定が体系的にできている例をネット上で発見しました。MBS毎日放送で取り上げたのを見たのが知るきっかけです。プライベートレッスンという時間的制約、しかも喫茶店でというレッスン場所で、どうやっているのか?今や同様の業態で事業を営む私にも他人ごとではない。この会社の授業を受けた経験のある方がもしいたら、お友達になりません?



目標設定の考え方について。
上のをクリックして見てくれた人には分かると思いますが、英語の方はネイティヴレベルまで設定してありますが、私の日本語学校のは能力試験1級レベルどまり、あとはせいぜい大学の講義に対応できるところ程度です。2年コース、1600〜1800時間程度のレッスンと、加えて学習者のその期間の集中した自習を会わせても、まだネイティヴレベルには達しません。またどんなに上達してもネイティヴと変わらんとこまで行くのはよほどの達人と思われます。しかし、それでもモデルにすべきはネイティヴしかありません。英語のような国際語的な役割りを担ってしまい現に様々なローカル英語もその体系の一部になってしまっていますものは、スタンダードな英語を目指しても良いでしょうが、そのスタンダードはネイティヴがもっとも参照されるものである事には違いはないはずです。



そういえば、本日ご紹介の「畑村式分かる技術」に、目標設定と並べて、現場での観察から生まれる課題設定の重要性が強調されていました。(第2章)私の考えでは、最終目標は最大限高く掲げ、そのうえで、そこへ至るステップの積み重ねにおいて、個々の課題設定をその都度適切に行う事だと思います。このブログでも何度も書いてきた事です。創造性の源は現場ですが、日本語業界には現場の混乱はつきものです。混乱に左右されず業務を遂行していく指針を立てるうえで、抽象的な枠組みが有効に機能する場面が数多くあります。