今週の出来事


なんかね、ブンガクっぽい空気が身の回りに漂っているんだ。で、なんでこうなったのか、少し前から振り返ってみようかと思うのさ。


三週間前の火曜日はクライアントの要請により2時−3時でレッスンやって、そんときから、ネットの無料アニメの見過ぎで目から来た強度な肩凝りがあったんだけど、レッスン後に大手新聞社の広告担当の人とみっちり話し込んでビールの只券があるからって奢ってもらって、7時近くに別れたものの、ほれ、ぼくってそんなに酒に強いほうじゃないので、ジョッキ一杯の生ビールで気分が昂揚して、梅田ジュンク堂をしばらく徘徊したわけ。ちなみに、ネットで只見したのは涼宮ハルヒのなんたらとラキ☆スタ、精霊の守り人あずまんが大王などですが、文句ある?


ほんで、やっぱり、体には良くなくて、風邪ひいたんで、この週の木曜はさすがに仕事休んだ。変な風邪で熱は出ないで胸だけがいやに苦しかった。だから、サックスのレッスンも休んだ。結局、メンテナンスに数ヶ月かかったのと
同じ事になっちゃってる。で、ホームドクターに見せると気管支に炎症があるとのことで、鼻うがいの簡単な方法を教えられ、毎日するように言われた。


翌週も、月曜からフランチャイズでやってる英語教室の研修会から始まって、ぽつぽつある仕事はこなしつつもなかなか治んなかった。特に、胸がむわ〜〜〜っと痛いような、酸に粘膜が痛めつけられるような妙な感じがちょいちょいあった。木曜日は、知り合いから頼まれた、かねて約束した日本語教師を目指し始めた大学生に、個人的にレクチャーをやって、そうだな、このときにあまりに現状のネガティヴな話しが続いたので、私が経験した天国のようだった日本語学校の話しを,合間に織り交ぜた。


ああ、そうそう、思い出した、パラオのことやら、ボリビア人の画家ヴィクトルの話しやらを書きたくなったのだったよ。それに次の日に「坊ちゃん」をクライアントと読んだのも、ぼくを取り巻くブンガク濃度をあげる要因になってるよな。その日から、移動の電車でも、古くて分らない単語や文物を調べ続けてるもの。「袷」なんて、漱石のあとの太宰治なんかの作品にも出てきたと思うけど、分ったつもりで実際調べたら、違ってたものね。


土日が、僕は今一番忙しいんだけど、日曜日あたりで体調も戻って、つらつら見ていると、松本人志がやたら映画の
プロモーションで出てきて、思わせぶりをするので、どうしても見たくなって、月曜日は自営業の特権を生かして、映画館に出かけることにしたたわけさ。たまたまだけど、午後一時からのレッスンもクライアントが論文がぎりぎりになったんで、急遽キャリオーヴァーになったもんでね。先にホームウドドクターのとこに行ったんだけど、ついでにやってもらった「すこやか検診」で、ヘモグロビンと中性脂肪が異常な値で、血糖値はまだいいけど、「隠れ糖尿
」と診断された。病名の中に「尿」があるのがいやだね、この病気は。「隠れ」っていうのはどういうことかよく分からないけど、もう相当のようなので、運動、食事の節制を言い渡され、素直に「気をつけます」と言うほかなかった。体重を今から7キロ落とすのが目標になった。


現代の典型的な病で、うっすらとありふれたアンチクライマックスな「死」を浸透させつつ、ぼくは堺東という駅で
バスに乗ったわけ。堺北循環20の路線は、大阪市に通じる北往きの国道を行くんだけど、これがまた、ぼくが天国だったと人に自慢する、いつか文章にまとめたいと思っている日本語学校のあった福山市の中心から西へ出る国道2号線のたたづまいを彷彿とさせるんだよ。片道二車線と三車線だし、方角は南北と東西だし、バスの客は関西弁と広島弁だし、全然ちゃうねんけどな。


その日の天気は、抜けるような青で、瀬戸内気候っぽかったせいかもしれないね。バスは臨海工業地帯に向かって、その日は海の上に浮かんでいるのだろう積乱雲風の雲の並びが遠目に見え、温室効果なのかと危惧させつつも、夏の予感にぼくの心は浮き立っても良いという条件的な開放感は得ていたのだ。実際に心浮き立たせる事はなかったものの。


目指していたのは、初めて行くレジャー複合施設。工場が抜けた跡地利用にできたもので、フツーは自家用車で行くべきところだ。そこへ行く途中、今や老いた父が私たちを養うために数十年間通った「新日本製鉄堺工場」の入り口
にバスが来た。はからずも、なぜかこのちょっとしたおでかけが、かなりの大過去の記憶を刺激するのだ。溶鉱炉はもう止まっている。そのはずなのに、まだなにか水蒸気をあげるプラントが見えもする。


レジャー施設についたのは、正午より少し前で、目当ての映画までは相当時間があった。医者にいろいろ言われたあとで、少量の食事を耐えるのに、まだまだ,余裕で愉しみを見いだせる。シザースサラダと飲み物だけにして、ひたすら時間潰しに「坊ちゃん」のわからない単語と故事を辞書で調べた。「麻布の連隊」はさすがに辞書では分らなかった。


さて、マッちゃんの映画について、どう言えば良いだろうか。とりあえず、本編前の予告編を見ていて、なぜか殺伐としたものばかりこの夏は並んでいるようで、いつもながら邦画には食指が動かんのがいやましだった。本編は、キモになる大日本人のキラリと光るカットが結構あっただけに、シーンの組み立てのマスターピースが忘れがたい印象を残すものでもあったが、それだけに、見せ方、作り方、結論の付け方などは、他にやり方があったはずだと残念だった。特撮班がどこのどなたかは分らなかったが、あのような使い方は可哀想すぎるだろう。松本よりさらに上の
金だして口だしたヤツがセンスがないのか?ずっと見ている間抑圧されるのは、松本さんが以前に割合自由に作ったときにもあったので、それは我慢はしたんだけど。でも、かすりながらも、やばいところに触れているようないないような、迎合しているようないないような、毒をはいているような吐いてないような、どっちつかづの感じが、僕に限って言えば、自分の表現欲求を刺激される羽目に陥る、そんな意味で、やな刺激臭の残る作品だった。でも、思わせぶりは嫌いなので、もっと直球で勝負せんかいとは言いたい。


帰りのバスではキリキリパワーが炸裂していた。なんのことか分らんだろうが、これも福山時代の記憶につながる出来事。


昨日は、凝りもせず北野武監督「監督・バンザイ」を見た。伊武 雅刀のナレーションで、早い展開の導入部を全部
片付けようとする。あっ、昨日のマッちゃんのもヒーローにインタビューするドキュメンタリーっぽくやってて、言葉で説明するやり方。いっちゃん、映画でやったらあかんことやないのんけ、絵でみせんと、言葉で説明っちゅうのは、え、わっれ〜〜!一日遅れで、今頃気がついておるのであります。


これな、例えば,筒井康隆の小悦やったら、どんな荒唐無稽な設定でも、普通の主人公が巻き込まれるようなとこから一般読者がすーっと入っていけるような展開にするやろ、と昨日見た映画の思い出し批評が頭の中で展開してしまった。ウッディーアレンの初期のドタバタでも、武がやりたいとこは、失敗を重ねる作品をつなげるだけでとちごてやな、ナレーションで説明してしまった所は、合間の劇中のリアル監督の追い込みシチュエーション設定して、それを映画の内容に反映させたりするやろ。


笑うところが、最初の方でなかったせいか、コテコテの関西弁のおれの後ろに座ってた関西人が、くっだっらんすぎて失笑するようなギャグで、まじに笑っていた。このことも、かえって怖いと思った。そのはしゃぎように、おれはヤツがあともうヒト騒ぎしようものなら、おっさん、なんや、サクラか?オモロないのにムリから笑うな、だぼお・・・・と喧嘩を売ってしまったかもしれないほどだ。いえいえ、しませんよ、そんなことは。理性あるし、我慢強いし。たとえですよ、これは。


二本とも、まともな映画を「壊す」やり方が、くだらなすぎて、稚拙かつ、手際悪い、お膳立てが手抜き。なにか秘密のメッセージでも込められているのではないかと勘ぐらずにはいられないほどだった。


おかげで、「笑いを強制するソフトファシズム」という設定で近未来社会派SFを書きたくなってしまった。
主人公は、もちろん、核兵器を頂点とする暴力的国家にひょんなことから追われており、さらにそいつと対抗してテロに走る集団に対しても偶然のいたずらから標的にされる、フツーの人である。


これは、ですね、あまりにつまらん映画を二本も続けてみてしまい、しかも、なぜかつまらんかったとは言いづらいい、妙な感触をも含めて払底するために、口直しとして読んだ大江健三郎の新刊「大江健三郎 作家自身を語る」にも触発されているのだった。あ〜よかった〜。まともにとらまえて、格闘できる、しかも新しい表現が、そこにあってくれて。といっても、おなじみの大江世界の総復習といった感のあるものだが、インタビューなので、分りやすくて、初期から最新作までのつながり、また、書いた人本人にとって作品がどんなんなのか、わかってよかった。面白いエピソードもいくつかあったし。


で、漱石「文学論」に手をつけちゃったよ、今日は。
明日はどっちだ!


大江先生曰く、最近の表現、ブログのよくないところは、よく練られていない,推敲していない生の表現がそのまま出ている事、のようなことをおっしゃっている。
げに!
私がお勧めしている個人のブログの皆様の文章はちゃんとしているものを選りすぐっているつもりだが、おれのはいけねえ,今日も中途で文体が変わっちまってるが、そのままだ。
すまんね、こんなもの読ませちまって。