哲学と心理学


哲学をひとことでまとめることなどできない相談だが、心理学との対比で仮にこういうことはできるのではないだろうか。哲学とは「人が知識として、真理、あるいは正しいと思うことの根拠を探求すること」であると。主にこの探求は思考という活動を通じて行われる。ときに直観も使う。生きている人、現実の生活を営んでいる人が、普段持っている正しいと思うことについて、哲学的な吟味を行なうかどうか、あるいはその程度はひとそれぞれといったところであろう。そのうえで、人間がこれまで築いて来た哲学には、完全なものは存在せず、様々な立場があり、意識的であるにせよ、自覚なきままであるにせよ、生きている限りはものを考える動物である人は、多かれ少なかれなんらかの哲学を実用的に使用することを避けることも出来ないということも事実である。(ここまでは哲学について考えたことのある人にとっては、穏当なありふれた話であったと思う)。


私が哲学に期待したのは、世界、自然、宇宙、存在、知性、理性などを対象として
(諸科学と手を携え)全てを解明し関連づけてくれることだった。せめて、その途上でここまで人類の認識は届いたというのを見てから死ぬならば、一方のこの不条理に満ちた世界に生きた意味の一端に触れられるかと思うたのじゃよ、わしは。
日本語教師のブログがこんなことになってもうしわけない。と言いつつ話はこれからだ)


一方心理学は、対象が人の心である。哲学に比べるとみみっちいのである。だからぼくは、あるところでは哲学と隣り合ってたり、重なったりしている心理学にはあまりまともに取り組もうとはしなかった。認識の場である意識を把握しようとする点で、親しみのあるお隣さんとして、ぼんやり顔は知ってます程度であった。


ところが、である、とは言いながら、「真理と真理が傷つけ合う時代」との名言が指摘するように、究極的根源的真理として主張し合い、それぞれがそれなりにもっとらしく<全てを>説明してしまうという思想的群雄割拠の時代があり、それはいまだに続いていると認識している。(俺だけ?)時代の理性の限界、合理主義の無能、科学の分裂に由来し、歴史、深層心理に潜むリビドー、論理と数学と物理学の基本科学のセットなどが、我こそ真理の源なりと主張していた。(ま、調子、で書いているだけ・・・です)


ところが、である、心理学と哲学の関係に戻るのだが、哲学者が思考力を使って「世界の根拠」をこれ!と示そうとしてたどり着けないところを横目で見つつ、(経験科学としては?ではあるものの)よくできた理論的体系であり、かつ哲学ではない、深層心理学が、哲学者も十人十色の性格のひとつであると指摘するのである。(ユングのタイプ論、実際には8タイプ)そして、いくら哲学者が理性にもとづいて真理を説き、正義を成せと言ったって、人間そう簡単にそんな説得には乗らないよと言うのである。感情で行動し、虚偽に自己証明を見いだして幸福である人間も、「立派な」人間なのである。偉大な芸術を生み出し、人類に貢献すらするのである。思考を第一にする人間が、とらわれて、人を不幸にすることもある。それが何故かを心理学は説明できるものは説明する。タイプの違う人同士が気づかずに
相手に対する思い込み、自分が正しいという思い込みの所為で無用な対立に落ち込み修羅場を展開するのが人間界だとぐらいに思えばよいのである。偽善が嫌いな私はこの認識は気に入っている。ブラックなジョーク、人間の暗部に迫る文学作品や映画を好む私としては気に入っている。(文学といえば、私はかつて作家志望だったと書いているが、哲学のみならず心理学まで導入しては理屈っぽくてたいへんだから、という規制が働いたことも事実のようだ。が、読者にもいろんなタイプが居る。自分が実生活を生きる上でどんな人間であり、作品制作は自分の中にある何を、特に周りの人と違うなにを表現しようとしているのか、を把握するに非常に有益であることを真面目に捉えていなかったのは、えらい損失だった)


しかし、この世に不正、無知、暴虐、腐敗、偽善、詐欺などなどがあまりに蔓延しており、人類全体が阿呆な自滅的行進をやめないことには、腹が立つ。これは頭で考えたことではあるが、それに終わらず、わが実存的感情にまで直結している。私のようなタイプはどうやらそうなってしまうらしい。だからそれをやめろといってもムリだ。学生時代フランス語の試験問題が漏れて来て、おれは不正そのものが醜いと思い、ただちに断った。おまけに勉強もしなかったので、不合格点をとって教師に呼び出され、カンニングのうわさがあり、学生らの回答を見るとその節があるが、お前はなにか知らないかと尋ねられたことがあった。自分以外全員が一人もカンニングの機会を逃さなかったのが驚きだった。一応公立大学で、偏差値ちょい高めだったのに、私はそのとき日本人全体のモラルの低さから、いずれ日本は外国の植民地になるだろうと直観し、そのいやな予感が現実化しつつある現状を感慨もなくながめるばかりだ。であるから、日本語教育業界のような不正の蔓延する、そうしないと生き残れないとほざく<大人>!どもの巣にいて驚きはしなかったが、やつらからすれば、おれのほうが<悪い>のである。やってられるかってんだ。さて、世の中全体ではどうか。正しいことが行なわれない時に、憤るのは、自分が当事者として不当な扱いを受けたときだけで、他者が不正の被害者であっても、人間全部が我がことのようには受け止めないのである。心理学を学んでこういうことも理解し、受け入れる努力をすることは、個人的には<やなことだが>、心理学を通して大人になることと言えるだろう。こんなことは、哲学だけだと起こらないかもしれない。(いや、英語の悪い意味でのナイーヴな話を書いているってことは分かってますが・・・)


そのほかに、古い神話の分析を通して文化を深層から理解したり、歴史の再解釈にも証明を与えるフレイムにもなろう。ほかにも応用範囲は人間の行為が関わるところなら無限な広がりを持とう。文学やその他の芸術の分析にも結うようであるし、むろん、隣接諸学との連携でさらに豊かにもなろうが。筒井康隆先生の作品とエッセイで十分と思っていた自分が馬鹿だった。ほかの科学といえば、脳科学認知心理学言語学、文化記号学などなどいろいろ勉強すべきことがたくさんあるが、心理学が勉強の要ともなりそうである。


ただし、難しい日本語を易しい(初級や2級レベルの)日本語に変換して外国人に説明するのには直説訳には立ちませんな。日本文化の分析に、うまくいけばあるところでは機能するかもしれませんが。それより実際に役に立つのは、学生ひとりひとりの個性と教師としての自分自身のタイプを理解し、よりよいレッスンに活かすことだろう。