メモ

メモ1
最近の言葉の変わりようは、かなり激しいのではないかと思う。若い人たちの上の世代との違う言葉を使おうというのは、いつでもあたことだろうが、感性の劣化、論理的能力の不足はないか、真面目にものを考えよう、感じようとした時には手遅れにならないか心配である。私の子供時代には、あまりなかった、呂律の周り方に問題のある子にちょいちょい出会うこと、いっぽん、にほん、さんぼんを「さんほん」(濁音のてんてんなし)と言ってしまう子などの観察から、言語能力の土台のところでも変化が起こっているのではないか、誰かちゃんと見てくれているのかと心配である。


メモ2
大人の言葉遣いにも気になる点がある。敬語の尊敬、謙譲の使い分け、特に受け身分にも能動にもなりうる文の途中で、主語(主題部)または目的格どちらかになる句を言ったあとに「を」か「が」の後、ねじれた述語をくっつけてしまうこと。頭を使わずに適当なフィーリングで言ってるなあ、という観察はもう十年ぐらい前から起こり始めて珍しくもない。去年から気になっているのが、「〜のかなあ」である。意見を述べる「命題Pではないでしょうか」と自分の意見を言うところで、意見としてではなく所感それも、自分が感じているのか、全体の雰囲気を代弁しているのか、ぼかして責任を回避している。こないだ地震のあとのどこかの教育委員会の倉庫の責任者が、「私はお困りの方の地域情報の収集をもっと敏速にしていかないといけないかなあと思います」という趣旨のことをこの話法で述べていた。字で書くとあまりにバカであることが明らかだと思うが、テレビのインタビューに答える話法としては、責任回避の話法として市民権を得てしまっているのが、もう**の**はおわってしまっているかなあと思います。


それと、「私は〜」ではじめて、「Pと思います」の「と思います」をまるごと省略してしまうやつ。これは、もっと前からあるが気持悪い。これにしても上の例にしても、発言主体の個人としての考えを言うことに関する社会的な風通しの悪さを圧迫感を綿比は感じる。君たちはどうか。生物進化中立説のように、言語の変化も単なる偶然の産物であると君は考えるか。


メモ3 当事者2 
日本語の時間表現をテーマにした本を図書館で気分転換でぱらぱら見ている時に、ああ、そうそう、と前々からの問題意識としてあったことを思い出した。時間や空間は、客観的に第三者として述べる時と、自分がその中で生きている場合=当事者である場合は表現が異なる。この当事者表現を主観表現と呼ぶとして、それと客観表現、このような位相の違いによる言語形式の異なりは、認知言語やアフォーダンスなどからのアプローチはどうなっているのだろうか。空間と時間は、割と人類共通で学習者には難しくないかもしれないがより複雑な内容で、対人関係だったり感情や(自分の感情か他者の感情か、など)の場合の処理について、どの程度研究が進んでいるのか、調べねば。


メモ4
「ぼっちゃん」を読んでいる生徒さんの質問。


坊ちゃんは、都会出身なのに「陶器」や「骨董」についてあまり知らなくて、地方の人がそういうことに知識があるのは普通の小説の
パターンの反対だと思うのですが、漱石の意図はなんでしょうか。
  答え*ここは都会の文明開化の激しさ、田舎には昔のものが残っていること。それから、ぼっちゃんが都会で属していた社会階層
     や旧下層武士階級の家の経済問題、生活の簡素さと、こういうことに通じている田舎の人の社会階層の比較的高いことなど
     をリアリズムで描いているのだと思います。ちなみに、丸谷才一という作家は、ぼっちゃんをモダニズム小説としてとらえ
     ています。


質問:坊ちゃんが暗闇で向こうずねを打ち付けていたい思いをしたところですが、これは学生たちがわざとやったのでしょうか、偶然でしょうか。

答え*読んでもはっきり分かるように書いていません。読者に明示している箇所はないです。なにしろぼっちゃん自身が語る一人称ですから、それを考えている余裕が語り手にないところですしねえ。しかし、学生たちはいたずらに慣れている点から、また常識的に廊下にものがほったらかしということはないので、「わざと」だろうと推測できますね。

その他、古いことでは答えられないことも結構あります。
「日清談判破裂して」は答えた。「迷子の迷子の三太郎」は答えられなかった。文庫本の脚注を読んでも、それが分からないということもあった。


メモ5
日本国においても今でこそ外国語学習に文字だけではなく音声もしっかりやるべきであることは常識となっている。英語、中国語をはじめ、学習者が多い諸言語の音声トレーニング用の教材も数多く出ており、インターネットによって目標言語の音声に触れる機会も多くなっている。ただ、一般には、実際問題、いかにトレーニングするか手探りの段階であろうと思う。どのように効率的にやればよいのか、どれぐらい時間を変えたら良いのか、個人差はどの程度学習効率に関与し、そのなかで自分の適正はいかほどか。おそらく日本語教育の現場では、そういったなかで例外的に、ある程度指導経験を積んだおかげで実用に堪えうる聴解力養成について実績をあげている。あ、コアライブラリーも英語教育では経験と実績があるのだ。でへへへ。
さて、日本国における外国語の受容において、歴史的には音の輸入は、ひらがなで表現できる音声への変換によってなされてきた。中国からの、あるいは朝鮮半島経由の、文化思想法制度の輸入において、文字中心音声は日本語の体系への変換であった。文構造も日本語へ変換する方式を開発して受容したのであった。時を隔てて文明開化期以降の英語教育においても音声については同様の方式だった。文構造の変換はなぜかしなかった。(調べねば)このカタカナで表記して日本語に取り入れられた欧語は、当然のように日本語の音韻体系内に納められつつ、音素の新たな組み合わせを若干はもたらしたが、音素そのものが新たに生み出すところまではまだ至ってない。モー娘。の誰かが、「形容詞の<し>」の破擦音を英語の[s]で言っても、本人からしてわざといっていることであるし、非日本語音を混ぜて言っているなということは、認知されている。横道にそれたので、それたついでに言うと、タモリのネタである四カ国親善麻雀は外国語の音だけ輸入した例といえるかもしれない。
口の形や発声法などは母語においては無意識のレベルの運動であろうが、こいつを意識化してコントロールできるようにトレーニングすることが肝心かな目な学習なのだが、「日本人である」というアイデンティティー形成に無意識レベルまで降りて、いじり直さなければならないことが、意外と外国語音声の学習の個人の適応レベルにも関連しているかもしれない。集団としてはずれた音を出すのはよいとしても、クラスのほかの生徒が英語を日本語読みしかできないなかで、ネイティヴっぽい発音をすらすらするのは、心理的排除の対象になる危険すら、いまだに場合によっては起こりうるのではないだろうか。
(自分のことを言うと、九州から大阪に家族が引っ越したのが5歳の時で、日本語の中ではあるが音韻体系、語彙体系のゆらぎを否応無しに体験して、半ば意識的半ば無意識的なスイッチングを家と外で行なっていた。そのことと中学になってからの英語の学習時にほんまもんの音を言えるようになりたいと思ったこと、自分なら練習すればできると確信できていたことは関係があると思っている。直接具体的にはNHKラジオの基礎英語の発音指導をまともに受け入れて実施していた。中学の英語の先生の発音は参考にならなかった。酷い先生はwhichをホイッチと言っていた。たぶんホワットからの類推だろう。当時はそれを聞いて腹が立ってしょうがなかった。国語の教師なんてえのも、私の基準からしたら教養に欠ける部分もあり、考えが狭いなあ、つまらないなあと思っていたが。大人になって自分が教師になってから、なんにも知らなくても、偏った考え方しか出来なくても、教師になれるということを知った)
私の教室に来る生徒は、小2の子でも、英語の日本語読みは始めからすらすらできた。カタカナで外来語をある程度処理しているから、これを英語原文に読む時に応用しているだろうと推察する。今ではスイッチできるようになった。このあいだ一日稽古ごとが続いてやる気がないというときは久しぶりに全部カタカナ読みになっていた。英語に関して今後は発音指導が徐々に進んでいくだろうと思うのだが長期的にも二音韻体系併用が続くだろうと思われる。現実にはもうそうなってしまっている。それが自然ななりゆきかもしれない。ネイティヴ目標の発音指導をしている指導者はそのような観点が肝要だろうと思う。自戒を籠めて記しておこう。


具体的には、発音指導を全て厳密にやるのは、かえって下策を用いるのも同然なり。取り上げるべき音声は限られている。今の純正日本語音韻処理だと混乱する音について、実際の単語での聞き分け、言い分けの指導をすることで、英語学習全体に渡って、効果が現れると思う。英語の母音では、日本語の「あ」「お」(hat/hut/hot)「あー」(car/bird)で処理している音と、あとは日本語にはない子音程度でいい。まず、スペルの記憶の混乱が軽減されるはずだ。


あとは、音が単語のなか、単語と単語でくみ合わさった時の単音の変化だ。それには実際の単語、文を聞かせ、読ませることだ。