日本近代文学が投函した恋文は民営化したあれでも宛先には届くだろうか?


インプットしたら、なるべくアウトプットした方が良いと思うので、読み終わったばかりだけど、もう書き始めたしまった。高橋源一郎日本文学盛衰史」(井上ひさし「国語元年」とともに肴にして、日本語教師と語り合いたい作でした)


もう終わった(と言われて久しい)日本近代文学ではありますが、そのファウンダーたちの群像劇を見事に現代読者にとって読み得るものにしてくださった高橋さんには、感謝の気持ちでいっぱいです。以前、田舎暮らしの寂寥をかこつ身であった私は、新聞文芸欄を通じて「今度の直木賞は『機動警察パトレイバー』に決まりだ」と書いてくださったおかげで、そいつが気になって目をつぶって買ってみたら、やっぱり面白くて今ではお気に入りの作品の一つになっているのですが、そのとき以来です。またお世話になりました。2001年発表だったのを今頃読んですみません。雑誌でちらちら読んでたときは、連載の途中で、田山花袋がAV監督をやるという設定の上に「露骨な描写」もあり、漱石、鴎外の会話もただふざけているだけにしか思えず、真面目な方の意図は全然読み取れてなかったのでした。


作品内では、終盤のWho is K? の条りで、漱石、啄木の秘められた謎が「こころ」のあらたな視点の提供によって、それはむしろ、生まれるとともに死んでいく運命(さだめ)の日本近代文学を生きた二人の悲劇的ドラマを過不足なく描くことにおいて効果的でありまして、やっぱりただ事ではない日本文学の暗さに改めてスポットライトが当たったーーんで、黒光りしてしまった、と感じました。


大逆事件が歴史的事件として重要な背景になるのですが、啄木は、抗ってあくまで貫こうとするところを、漱石は?あれほどのお方も、もうどうにもならない、できない現実。すべてを自らの手により開始し、理解し尽くし、見通しているが上に周りには理解されない振る舞いを続ける二葉亭四迷。この人の認識まで来ると、恋文の宛先の存在さえ怪しくなってしまうラジカルさ。←おれは自分が、これかなと一瞬錯覚した。啄木の届かなかった手紙、実際は評論「時代閉塞の現状」は今日では手軽に読めます。青空文庫http://www.aozora.gr.jp/cards/000153/card814.html。ここで語られる若者の苦境は、今また繰り返されております。


岩波講座 日本文学史 というのがあるのを初めて知りました。図書館で見ました。近代文学の依って
立った言語、文体の研究がほとんど端緒についたばかりというのは、驚きでした。これも、タイムラグがあるので現状はもっと進んでるのでしょうけれども。また、江戸時代で近代共通語を認める説が有力であるらしいですね。確かに二葉亭も円朝の怪談速記録を手本に言文一致体を編み出していったわけですものね。梅暦が維新より30年前に書かれていますが、見てみると、地の文は現代人には読みづらい七五調に掛かり言葉が多用された文体ですが、会話はすらすら読めますものね。落語そのまんまでしたわ。


日本語教師としては、である、だ体や、です、や、ますの出所ぐらいまでは押さえておきたいですね。


日本文学盛衰史」中、山田美妙も二葉亭と並ぶ、言文一致の開発にあたった人としてちらっと出てきますが、なんとこれが「おじゃる」を持ってきていたのですな、苦労がしのばれ・・・は、は、は。・・・と思わず吹き出してしまいそうになりますが、現に「布団」の花袋先生などは、私ども生意気盛りの大学生の頃は見下しまくり、馬鹿にし放題、見くびり三昧だったですけんどが、今回、この作品を読んで、ちょっと待てよ、と、あまり当時の苦労を知りもしないで笑うのは誰だってできる、すくなくとも、状況を理解して、汲むべき点は汲んでから、笑うべし、と思いました。これは作品のメッセージのひとつと受け取りました。学生と奥野健夫さんの「日本文学史 近代から現代へ」(中公新書)を読み始めて、この作品も読んで見たのですが、今後の取り組みも変わるほどのインパクトは受けました。


現代の我々の日本語の基礎を築いてくれた人たちであり、良くも悪くも、我々日本語教師にとっては深いつながりがある人々のことが、この作品を読んで、血の通ってる生身の人間だったのだと身近に感じられました。現代日本の書き言葉は、その人々の血と肉と魂が滲んでいる作品だと言えるのではないでしょうか。その結果、今に伝わる公共財がこの今日の日本語であり、私たちの飯の種になっとるんですな。水や空気のようにただで転がっているものではないのだということを再確認です(最近は水や空気も怪しくなりつつある不気味な日常ですけど)。