内田樹先生の「村上春樹にご用心」読みましたか?


私は、鈍感なニンゲンであった、とこれほどつくづくと思い知らされた書物はありません。村上春樹をとまでは言いませんが、彼の作品を「見下していた」ことは確かです。恥ずかしい。小学生の頃、いじめの輪の外にいて、嫌な思いと、怖い思いと、無力感と、その一方で面白がっていた。なにもしないでただ見ていた自分を思い出します。恥ずかしい。


ひどい別れ方をしてしまったあの子も、ハルキ、ハルキとアイドルのようにいってたっけ・・・。悔しいとすら思わなかった。それほどに鈍感であった。目の前で起きてる現象が理解できず、重大なことを見過ごしている人のようにだけはならないでおこうと、これまで生きてきたつもりだった。でも、自分もそれになっていた。恥ずかしい。


それと同時に、今渦中にあって自分が取り組んでいること、文学とはまったく関係のないことが、文学によってもっとも強く確実な仕方で肯定されていると感じさせてくれた書物もありません。これ、馬鹿なことに違いないけど、でも誰かがやらなければいけないことなんですよね。
照れくさいけど。


雪かきの仕事、センチネルの仕事、炭坑のカナリア、ライムギ畑の抱っこ兄さん、などなど。


早速、近代文学を一緒に読んでいるお客さんであり、私の生徒であり、最近、英語の先生になった人に、
これまでの私の村上春樹についてのコメントを訂正しました。トールキンの愛読者でもある古代ギリシャローマ文学が専門だった、この人は、「指輪物語」もあまりに広範な読者を獲得してしまったために正当な評価を受けられなくなった作品だ、と言っていました。


すべてが分かることの方が少ない。小説がすべて分かるように書いてあるほうがおかしい、とも。
幽玄なる能の構造と村上春樹作品との比較や、ハイデガーの読み替えゲームや、知的刺激を散りばめつつ、楽しく読めて、しかも、<まっとうなこと>を言おうとしている書物でした。


村上春樹の新刊エッセイを買おうかとも思ったのを、なぜか内田先生の本の一ページ目を読んで、これは
自分のために書かれている!と思って買ったのでした。その順番でよかったように思います。わし、デビュー作から読み返し始めましたで。


NOVA!の項目を書いたものが、こんな本を読んでもいることを知らせたかったので。


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さて、それから、合間を縫って、ほんとうにぎゅっと詰まったやっつけてもやっつけても続く仕事時間の合間を縫って「風の歌を聴け」を読んだ。最初は薄味のスープ、しかも、具が底の方に沈んでいるのかしてすくえない。しかも、色はフツーのスープと同じ濃さなので具が本当はあるともないとも分からない。
といった印象である。これこれ、「独特の冷めた世界」なんだよな〜。


読んだから、ここに感想を書こうとしているのだが、昔は紙に油性インキのペンで日記を書いていたものだが、あの習慣をやらなくなってから、何年経ったことやら。書き始めたのは小五の正月。大晦日の夜、友達のうちへ行く途中の出来事から始まり、テレビに登場したばかり、「私の城下町」がまだ大ヒットとなる前の「小柳ルミ子という歌手」に対する友人白亀君の微妙な感情を書き付けてある。大人になってもとぎれとぎれに続いていたのだが、いつの間にか・・・・


「風の歌〜」の話だった。読んでいる間は、「なにかやさしげなものに浸っている」感覚を味わうんだけど、本を閉じたとたんに消え失せるのですよね。サンディーという歌手の「The mirrors of eyes」という歌があるんだけど、あれどもつかめず、よってきてはきえる、心の陰のような、すべてを包む命のような、それと似た感覚。


ぼくが、南の島パラオで、ソウルシスターとその友達のみんなと無人島にボートを数時間飛ばしたんだけど、目的の島に着いて、食事の用意ができるまで、座って待っておけと言われ、ひとり遠い遠い水平線をながめていたところ、ぼくと宇宙は一体になって・・・


「風の歌を〜」の話だった。真ん中まで読んでも具はまだ出てこなかったのだけど、かつてつき合った恋人が死んだことが、分かる。何度目かの読みだけど、ああ、そうだ、そういう話だったっけか、と思いだした。初めて読んでいるような気がするのは、いいことだろうか。いいことだろうね。


ぼくは、できれば、読んだ本は全部取っておきたい派だ。忘れっぽいから、何度でも楽しめる。部屋いっぱい本だ。ピーク時はたぶん5千冊はいってたのじゃないか。そのときは、6畳間が一階と二階に合わせて四部屋で、台所もついて家賃が5万ちょいという一戸建てを借りていて、いやあ、本が主(あるじ)か、主(あるじ)が本か、てなぐあいで、ぼくは家賃を払って本のための執事・・・


いやいや「かぜをひいたら歌を聴け」の話だったっけ。やっぱり具は入ってなかったんだよな、最後まで。中間やラストなんて、もう何が書いてあったか、覚えてないや。立派なもんだ。具が入ってないのに、一応、最後の一滴まですすらせちゃうのですから。


内田樹先生の批評していたのと、なんか、違う・・・・?
違う作品のことだろう、たぶん。


とにかく、腹がくちくならないので、2杯目行こう。次は「1973年のピンボール」だ。
これからもっとデブになるだろうと・・・思うなよ。
いや、もう、デブでいい。もう、村上春樹の良さが分からないドンカンでもいい。
しかし、意地と、職業上の必要から、無理にでも読む。
関西的には、「無理から読む」と言う。「から」の特殊な使い方があるのだった。
桂枝雀師匠の好きな「から」だ。