何処へ向かって行くのやら・・・いもづる式に理科系の基礎にはまっているが


*すみません、文系の諸君!いきなり理系の話でぶっちぎってしまいます。ごめん。理系のお兄さん、お姉さん、笑わんといてや。文系のわしが独学で、ここまで分かったというまとめしてんねんからな。(ちょっと前のアニメの非ネイティヴ大阪弁調で)



というわけで、人類ももう50年とか、300年とか、生き残りが細々とやっていって1000年とか、各方面から数字が出ているのを見るにつけ、(前の数字は惑星物理学の松井孝典さんの人間圏崩壊説、後ろの300から1000は筒井康隆さんの発言、雑誌・文学界での座談会からのもの)小松左京の自伝で、宇宙に置ける知性の意味とはという果敢な問いを生きた生涯を再認識するにつけ、せめて相対性理論量子力学は死ぬまでに分かりたいとか、ゲーデル不完全性定理以後、数学的論理学が悪魔的天才フォンノイマンにより実学としての計算機科学に転用され、果ては原子爆弾を生み出した経緯をつぶさに知り、できるものならせめて自分のうちぐらいはプライベートで核武装できるぐらいのノウハウは身につけたいなどと思う今日この頃であるが、実際に理系のお勉強に走り出して止まらなくなっているのは、かの2001年宇宙の旅モノリスのように私を導く一冊の本がきっかけ



「集合・位相入門」高校生レベルの予備知識で現代数学の入り口を紹介しようと言う大学生向けの本


ところが、各章末の練習問題を見ると、数列だったり方程式だったり、こりゃあ、高校数学といっても、公立文系にかろうじて数1だけなんとかこなして合格した私には、復習せねば、十分に楽しめないな、という事が分かった。この本は、このぐらいの数学は分かっておいてね、と言っているように見えて、高校からのやり直しを始めたわけだ。ちょうど良いのがうちに買い置きしてあった。『高校数学+α」という、大学に行っても面食らわないように架け橋になっているものだ。「集合・位相入門」はお預けにして、一ヶ月前から取組み始めた。おかずは、東京書籍のニューアクション。今、高校二年の1学期あたりだろうか。ベクトルの所まで来た。


平行して、早川文庫の「数学を作った人たち」を読んだ。数理的論理学の先鞭をつけたフレーゲについて「フレーゲ入門」を読んだ。記号の操作、数式とグラフと計算とで思考を進めるのになれて来たので、おっ、これはいい具合、ついに、記号論理学の初歩「論理学の基礎」という本を、練習問題をすこしだけ片付けながら、一応最後まで目を通した。一階述語論理までだったが、二階述語論理が何者であるか、今中央公論社から刊行中の「哲学の歴史」シリーズ中恐らくもっとも売れ行きが低調な部類に2巻古代2帝国と賢者や3巻中世、神との対話なんぞといっしょに肩を並べるのではないかと想像する11巻、20世紀その2言語・論理・数学の論理記号にまあまあついていけたので、二階の述語論理がなにかおぼろげには分かった。


本屋を野良犬のようにうろつく癖は前々からだが、数学の棚に真っ先に行くようになったのはこの一ヶ月ぐらいが初めてだ。去年の九月に講談社メチエの「論理の哲学」を読んで、現代数学、現代論理学、現代言語理論がとんでもなく変貌を遂げているのを知って、あわてふためいた、という事実がある。これが伏線だ。計算と証明はハワードカーリーの対応によって、型付きラムダ計算というものを使って共通に扱えるんだってよ。これは、現代数学の抽象化が集合によって全部書き換えられていった初期の傾向から、今では関数、だからつまるところ写像に、なんでもかんでもしてしまう圏論とかいう分野の数学と関連しているらしいじゃないの。岩波から「論理と計算」というのがその後、私にとってはタイムリーに出たね。その後姿を消してる本屋が多いけど。


物理数学の直感的方法だったか、なっとくする物理数学だったかにいい事が書いてあった。人類の知の歴史に置いて、数世紀に一度、記述の簡約化と言う大変動が起きるらしい。で、またそれが兆しているとの事。そういう傾向の予兆はこの辺と、私は押さえられていないコンピューター言語あたりにあるのだろうと思う。


ブルーバックスからは、高校数学のシリーズに続いて、世界標準の内容を盛った発展コラム式中学理科の教科書なるものが出ていたのを一昨日見つけて即買い、英作の練習に使ってみたら、なかなか具合がよろしい。それにつけても、文科省の愚民化政策はいったいどこのどいつのどういった陰謀なのだろうか?前書きを読んでのけぞったよ。


何を隠そう、私はマインドは理系文系両刀のイケイケである。悲しいかな、理系のスキルの鍛え方がまるでなっていないだけの話なのである。というのも、小学校の5年から小松左京のハードSFを読んでいたし、「ショートショート集、ある生き物の記録」それから「アパッチ族」。高校三年生の四月に積分の定理について、論証のステップが一段飛躍があるのを見て教師に問いただして「それは大学で証明があるから」と言われたぐらいのセンスはある。ただし、大学では証明はなかった。なにしろ行った先が文学部だったもので。このことについて、ははああん、こないだ読んだデデキントの実数の連続性の証明と関係のある事やないかなあと見当をつけたのがこの間の事だ。長いブランクだったが無事に埋まるのだろうか・・・?


公立大学の文学部に合格して、個人的にはSF小説か純文学をやろうと思っていた私は、専門の文学的なテーマとしては圧倒的にベケットをやろうと思っていたにも関わらず、はたまた、ロレンスダレルなどにも引かれていた私は、なぜか二回生になるにあたっての選択の段階でベケットアイルランド人でありながら、英語とフランス語で書いているせいで、自分は英文科に行ったものやら、仏文科に行ったものやら悩んだ。それぞれの教室の先生に聞いてもはかばかしい返事はなかった。


あげくの果てに選んだのは哲学科だった。理由はたくさんの言語をやらずにはいられないから。二番目の理由としては現象学をやりたいから。やりましたよ。英語でヒュームと現代分析哲学、科学哲学、フランス語とラテン語デカルト、ニコラスクサーヌス、ドイツ語でエマニュエルカント『判断力批判」、仏文科の友人とロランバルトの本に入っているバルザックのサラジーヌを読んだりもした。


現象学はできなかった。とってもとってもやりたかったし、今でも自分の基盤としてしがみついているのは現象学的枠組みだったりはするが、フッサールその人の著書にはまだ当たっていない。こないだ驚いたのは、初期フッサールも意識の現象学的分析にn次元多様体論を下敷きにしているという本が出ていた事だ。日本人の研究者でした。あ、言わんとしていたのは、もう書いたように、分析哲学科学哲学の牙城に知らず知らずフッサリアンとして飛び込んでしまったこの身の不幸もそうだが、仕方がなくこのとき、距離感をもって聞いていた講義の数々、演習のあれこれを活かす方向で脳内引き出しをまさぐっているところなのであります。味と臭いはうっすらしか帰って来とらんのじゃけどね。


何の話だったっけ?もうすぐ50になるのに、新分野に手を出して新たに土台作りをするのはやめようと思っていたのに、半分は元の木阿弥だが、半分は学生時代のやり残した事の積み直しになってしまっている。哲学を理解したら、難解なものはもうなにもなくなり、何でも理解できる人になれるという子どもじみた期待もあったが、無論そうはいかなかった。法律や経済にはごっつ疎い。たとえば、あれだけ多くの語学に触れたにもかかわらず、哲学的にやっていると、処理する情報量はすごく少なくてよくて、ほかの諸科学をやったみなさんが数式を使って扱う情報量に比べたら、処理情報量は圧倒的に少ないだろうと思う。それはおれがその程度だっただけの事というのが実際には正しいのだろうが。文学作品に取組んだり歴史文献資料に埋もれた研究をなさった皆さんに比べたら、検討すべきイシューの複雑さは段違いだったろうと思う。論理的複雑さと自然に身に付いた思考にさからって思考を推敲する苦行的側面は大きいが。わたしは、コミックブックと小説やらニューアカやら山口昌男エドガーモランなどと映画にうつつを抜かす余裕があった。ギリシャ哲学をやっている先輩に注意された。マンガ読み過ぎだと。


今やっているお勉強をいずれは日本語の分析につなげていくべく努力するつもりだ。曰く「日本語と現代論理学、言語哲学」受験関連でも、論理を強調している人がいるんだってね。いい傾向じゃないの。本物ならね。