フレーゲの論理的意味論と日本語(教育)

前回のコラムの続きです。お題を二つ(フレーゲ日本語教育)並べて、私にとってもつなげられないと、自分がなにをやってることやら分からなくなるかもしれないので、自分のために、見通しをつけるためにアドリブでやってみますよ。よいですかい?
外国人に日本語を教える事と、(ときには記号を使って)論理を操り、例文を分析する事の関係を,誰にでも分かるように説明できるかどうか今回はチャレンジするものです。(専門の言語哲学の内部でも、近頃は「テクニカルにすぎる」という反省も出ているそうですが・・・。)


現職の日本語教師でアカデミックなこともやっていらっしゃる方の専門分野といえば、だいたい、日本語教育教授法、日本語文法、第二言語習得理論などが主になるだろう。それらに次いで、一般言語学や日本語以外の言語に関する言語学だったりするかもしれない。言語哲学となるとぐっと少ないだろうと思います。とにかく、科学(的)ではない(と思われている?)学問分野で、言語を扱うとなると、上記の分野の方には敬遠されるかもしれない。いや、それほどではなく、言語学をすこしかじれば、ポールグライスが英米言語哲学の問題意識から発して始めた談話分析などが出てくるのをを通じて、案外、自動的にみんなが知識としては知っている事に入るのだろうか。


では、フレーゲという元々数学者で、(主著は「算術の基礎」)現代記号論理学の創始者は、これにどう関わるのであろうか。このあいだ、本屋の英語学の双書に「形式意味論」のタイトルの一冊があって、目次を見るとその基礎として論理的意味論が入っていた。これなどは、学部レベルなのか、大学院レベルなのか、英語学の人には、フレーゲの名前も知られてはいそうだ、と思う。ならばドイツ語の人も知っているだろうか。フランス語ではどうだろう。ソシュールから記号論あたりは常識になっているだろうが・・・。米語では、生成文法かのミニマリズムのプログラムによる日本語文法というのが、去年か一昨年に一般書店に売られているものにも出ていますよね。
(私は、雑誌論文まではカバーしていないので、今のところは一般大型書店で知りうる「最先端」レベルである。正確にはそのレベルに達しようとしている者である。目指せアマチュア名人、といったところか)


ごくごく基本的なところから攻めよう。言語哲学というものが、20世紀初頭辺りからイギリスとドイツで起こったこと。


大きな流れの中では、科学的探求の精密化の流れとでもいうべきものがあらゆる分野でとどまりようもなく起こっていた。まだコンピューターのない時代だ。それもそのはず、フレーゲ記号論理学から数学の形式化、その挫折という流れの中から、<悪魔的>天才フォンノイマンが出て(「二十世紀数学思想史」)コンピューターは実現していくのであった。フレーゲがいなければ、コンピューターまで人類が行き着けたかどうか、てなもんだよ。その前にコピー機すらないよ。タイプライターはあったかもしれないが、「フレーゲ入門」にたまたま手書きの写しがなんたらという話が出ていた。20世紀の初めなんて、まだ18世紀啓蒙時代の研究室のようなものと大差なかったかもしれない。違っていたのは、自然科学分野の研究室の精密な実験器具とそれに伴う実験精度のグレードアップであった。(と見て来たような想像を言うのだが・・・裏は取れてない話だよ。やたらヒトに話してはいけない)またその反動で、思想や人文学、あるいは文学者は(数学が苦手なせいで?機械が嫌いな故に?)「人間の尊厳」をかけて合理主義との対決姿勢を強めるものもあった。・・・と思う。ニーチェとか、ドストエフスキーの「地下室の手記」とかはその例でしょうか。精神分析文化人類学などなど。私も数学は苦手だったし、背中を丸めてポケットに手を突っ込んで歩いたりする高校生だった。ーーそれは関係ないのだが。


論理、厳密性、精密、明晰判明、真理、確実性。物理学者たちは、非ユークリッド幾何学による物理学説相対性理論が「現実世界」を揺さぶり、ニュートン的世界観を「相対」化する様子に立ち会い、一方で確率的世界観へ徐々に近づきつつある中で、(誰か、科学史の年表を!)こういったキーワードにはめっぽう弱く、あるいは、努力目標として、あるいはライバルの科学者に勝つ切り札として、がむしゃらに日夜、正確に測ったものであった。何を?何か知らんが、ミリ単位で、ミクロン単位で、測っては計算し、計算しては測ったのであろう。あれやこれやを。はかれるものは何でも。(まだ、自然科学史の復習がすんでいないので、あやふやです)19世紀の数学がやたら発展して、なんのためにそんなに洗練するのか誰も言えなかったのに、後から物理学に役立ったということは、ウソのようだが本当にあったようだが。(「数学を作った人々」)


論理、厳密性、精密、明晰判明、真理、確実性。こういう語彙を並べると、中途半端にしか西洋の市民的合理性を導入していないニホンでは、アンチ合理主義的な態度、心情やら涙やら浪花節やらが、少なくとも合理主義に負けてはいない風土では、人が減って行く。お客さんがざわざわ帰り始める。職人とエンジニアと数学マニアだけが残る。女子の割合が格段に減る。ああ、そういえば、日本語教師は女性の方が圧倒的に多かったのだが。


しかし、それにもめげず、哲学、数学、科学、それぞれのお堅い分野は「厳密な学としてのX」であろうとした。
フレーゲフッサール
日本語で書くとどちらも「ふ」で始まる。けれどもドイツ語ではFとH。二人はライン川ドナウ川のようにきわめて近いところを源流として行き着いたところは正反対の海だった(BYダメット)。科学のよりいっそうの厳密化を目指し、ヒトの根源的な活動そのものを「真」なるものにいかに結びつけるかを一生の課題とした。


フレーゲは、一切の心理的要素を取り除いたところに論理を基礎付けた。その要点は,「記号」の形式的な使用である。日常言語などは、真理を表現するにはゆるすぎるのである。彼にかかっては、同時代の数学の証明ですら、厳密性にかける推論と見え、改善すべき問題児に見えたのである。(独自の記号だらけの本は出版社には断られ、出版しても、学界からも評価されなかったのだが、学界への復讐のための巨大ロボの開発などはやらなかった。人物像はカントのようだったそうだった。え?そのカントはどんな人やったかわからへんてか。しゃ、しゃあないなあ。野本和幸「フレーゲ入門」ちゅうのに書いてあるから、読んで)


一方、フッサールは、自らは心理主義をとっているつもりはないが(フレーゲから、そう言われた過去がある)、論理の基礎付けを「あるがままの意識」から導きだす道を探った。あらゆる学問的な真理の源泉は我々の「意識」である。この意識をあるがままに捕らえその本質を明きらかにしようとしたのである。意識を扱いながら、心理学とは確然と違うと主張したのは、経験科学よりも上位に「意識の純粋現象学」による本質をとらえることが根源的な基礎と考えたからである。この道は、ハイデガーサルトルという20世紀のニ大哲学スターを生んだ。
メルローポンティを入れると、三羽がらす。この人は、科学的な人間学認知科学などの分野で今でも影響力あるはず。


はてさて、大きなことを言えるほど、まだフレーゲを理解していない私だが、記号論理学の意味論と言う分野では、「記号」ときその外にある「現実」との関連が問題になった。フレーゲと並んで論理的意味論の開発者と称されるラッセルもこの問題に取組んだ。


ここから、いきなり、私の教室や喫茶店でのプライベートの授業での、学生に説明が必要な場合の日本語文分析の基本的枠組みと手順の話に移る。


複文であれば、まず単文にばらす。各単文は、とにかくまっしぐらに、フレーゲの言うところの項と述語に分ける。項というのは、なんらかの対象を指示する語またはフレーズのこと。項を決めたら、修飾部などの(ここでは)余分なものをばさばさ切り捨てる。項との関係で述語になる部分を決める。項(複数可)と述語からなる命題部分を再構成する。
そうしておいてから、あらためて、切り捨てた部分が、そのシンプルな部分に意味的にはなにを加えたいがためにあるのかを探る。


頭の中でだが・・・こういうことをする。


このとき、主語もしくは主部の位置にあるものが項となるとは限らない。
とは申せ、形式的に元の文と主語述語関係を真っ先に検討するのが当然の順番。たいがいそのままでよいので、この大上段に構えた分析法とやら自体が余計だろうとの疑惑もおありだろうが、とにかく、文の実際のありようから切り離された文の内容が形式的に整えられた形で得られる。それが、その後のあれこれをやりやすくするのである。もちろん、日本語でオッケー。分析は遂行可能。ときには実際の発話では、『命題』として捕らえられる内容が入っていないことはいくらでもある。それはそれで、そんな類いの文であると分類、認識してから扱うことができる。


非常にシンプルな日本語文ができあがる。(頭の中に。)実際の文は話し手や書き手のメッセージについての主観的距離の表明などが入っているので、それがメッセージの主要部分(=頭の中に作ったシンプルな文)といかなる関係にあるか、その(さきほど余計だと言って切り離した)語やフレーズが加わる事で何を加えたかを分析する。最初にエッセンスと二次的な要素にはっきり分けてからのほうが、断然、整理整頓されて間違いがすくなく、学生への説明も分かりやすくできる。



学習者の中には、2級合格程度の人でいうならば、読解するところをよく見ていると分かる事だが、このような整理が自分でもしっかりできるよう身に付いている人もいるし、勘に頼ってぼんやりとしかできてない人もいる。学生の得手不得手やそこまでの学習法や受けた授業内容などで、違いが出るものと思われる。


このような分析は、なにもフレーゲを持ち出さなくとも、言語学の分野でも「文は命題部分と(広い意味での)話し手の態度の表明に分かれる」などと定式化されてる事だ。(漱石先生は、文学論で小説の基本的構造をF+fに分けて開設した。ファクト(事実)とフィーリング(情緒)であったと思う。ああ、なにもかもうろ覚えだ)各々の単文、複文の統合体の文章についても、全く同じではないが、似たような考え方による分析の基本的枠組みは(私には)用意されている。



駆け足でざっと分析法を紹介したけど、哲学的にやっているとよりよいかもしれないポイントしては、現実あるいは、言語外のさまざまな存在との関係を詳しく問い、説明しようとしていることも利点となるのではないだろうか。過度に哲学を特権化したり、ましてや神秘化するようなことは慎むべきだが。他の先生方がどうやっているか、知るべきですね。ご意見ご感想をお待ちしております。私はともかく、この方法で大過なくやってきたことだけは申し上げておきます。その恩恵を私はフレーゲラッセルに負っております。それこそ、日本語教師として理論面をどこでなにによって養ったのか、によってそれぞれが違うのだろうが、私はいわゆる日本語教育プロパーではないので、平均的な皆さんにとっては遠回りなのか、近道なのかも分かってないのですが。ああ、哀れな私、野良にほんご教師・・・・。くすんくすん。


さて、ここから後は、一般システム理論のシステムの相同性にもとづく、
人の脳のベーシックな信号システム(感覚、運動、生存)の働きと、そのうえで、さらに情報伝達の効率化と超高度化を果たした言語システムとの関係から見た、フレーゲ記号論理学と自然言語の差異へと話はつながるはずだったが、書き出しで手間取ってもう時間がない。


始めの約束を果たせたとは言えないが、閉店時間となりました。
前のコラムから、今日までは、だいたいこんなことを考えていたのでありました。


月曜日は第2話から「狼と香辛料」を最後まで全部見た。商売成功の秘訣を学ぶつもりが、まったく違った魅力に参りました。丸一日休みで、娯楽の日になってしまった。日本語関連で言うと、中世ヨーロッパを舞台にした話の中の、神話的設定の半人半獣の少女に「郭言葉」を話させるとは、わっちもたまげたでありんす。それにこんなところでクリスモズデルが出て来たのが意外であった。エンディングテーマの可愛らしい英語詩を書いている。私にとっては、サンディーの一連のアルバムにときどき歌詞を提供している人としてしか知らなかったのだが。


今日金曜は、英語日本語のバーターレッスンで、ハレ晴れユカイを世界40数カ国の人々、だいたい高校生ぐらいの年齢層が踊るのを見て、(youtubeで今も見れます。<ハレ晴れ世快>で検索してくれ)感動した話をしていたら、世界平和について意見を求められ、(つたない私の会話能力のせいか、このようなこっぱずかしい話題で話す練習をしてもらったのですが。いつも読んでるテキスト「On the road」を私が忘れたもんで)地球上の六〇数億人の自由意志による選択の問題であり、多くの人々が賢い選択をする事により、可能である。同じ事は最悪のシナリオに向かって、選択が行われる事も可能だ。complete peaceが可能かと問われて、いつものでんで、極端なふたつを言って、現実はその間のどれかに落ち着くだろうという考え方だ。戦争の原因を作っている兵器の生産者と販売人、さらにそのつながりのある政治家は、シナリオの中の最悪の部類だろうということで意見が一致した。先生は、相互不信もバックグラウンドにあるとの指摘。そういえば、平和の問題とも関わる人類の課題、南北間の経済格差の原因を作っている人々のグループは、前者とover upしているのではないか、など、自分の英語表現力の限界に近づいたところでtime upとなった。ちなみに三島由紀夫金閣寺はなかなかはかどらない。ロレンスダレルについてのレポートを日本語で書いてもらった。


それから公園まで30分ほど歩いて、サックスの練習をした。腕前が少しばかりあがった気がした。チャーリーパーカーのアドリブコピーがなんとかなりそうなところまでくると同時に、ほかの課題がかなり楽になった。特に、楽譜の読み方、運指の反応、音の鳴らし方など一連の動きがスピーディーに。余り練習していないのに。なんだろね。数学より、フレーゲ入門の方が脳によいのか。それとも、書き物を始めたせいか?それとも、眼高手低の反対、眼底手高による錯覚か?それとも、あじやにおいを感じにくい分、集中できるせいか?この完全コピーは無理かとあきらめかけていたのだが、また懲りずにチャレンジを続ける気持ちがわいて来た。



またねえ〜。(NHK「エリンが挑戦!にほんごできます」(タイトル確認済)出演の豊田エリさんのブログの真似です。すみません。とにかく謝る)