「お約束」から「べた」へ、そして「一周回っておもろいわ」


前項の学生2の方の質問で、職場におもしろかったりおもしろくなかったりする冗談を言う人がいて、対応について相談を受けた。その前のその手の相談では、主語が、知らない間にどんどん変わる人がいて、テーマが分かりにくい人への対応などもあった。問題に鈍感な相手に本気で深刻な問題だと思っていることを伝える表現を求められたこともあった。(これには定番以外で、「しゃれにならない」を付け加えてあげた)


日本語教師として、ごくありきたりの基礎をまず踏まえるところから始めて、それだけで終わるというつまらない性質が身に付いてしまっている私ではありますが、この質問にも、そんなことで始まった。


「ぼけ」には、特に関西では、おもしろくなくても「突っ込んであげる」のが親切であり、愛情表現であるとまず説明した。


テレビで「お約束」と言い訳しつつ、型通りのお笑いを実行し始めたのは、メジャーなところではとんねるずあたりからであろうか。舞台裏の芸人間のジャーゴンを持ち出したものと思われるが、そんな言葉こそ出さなかったが、もっと前から「お約束を」やっていたのは、私が小学生だった頃からやっている吉本新喜劇、当時は平三平(たいらさんぺい)、原哲男花紀京岡八郎などが中心だった。(花紀京だけはまわりとはひと味違う鋭い笑いのセンスを持っていた。この方はエンタツアチャコエンタツの息子と伝え聞く)また、聞くところによると、出演しつつ、脚本も書いていた桑原和男モリエールの戯曲を下敷きにしていたそうで、学校から帰っての土曜の午後は毎週毎週いやというほど見せられたそれは、親の許さぬ身分違いの恋を狂言自殺(など)の芝居で打開するという筋立てが飽きもせずに繰り返されていた。


藤山寛美率いる松竹新喜劇のウエルメイドハートウォーミングな笑い、あるいは当時のアメリカ発シチュエーションコメディや映画のプロットにちりばめられたウイットや批評精神、または上方古典落語の心理描写とシュールな状況の配合、赤塚不二夫のとんでもないイマジネーション溢れる発想などと比べた場合、子どもながらにも低俗で下品な、「知性のかけらもなさげな」受け狙いの「ギャグ」に眉をひそめながら、次第にマンネリなものとしてみなくなっていた。


しかしながら、筒井康隆が80年代に指摘していた(と思う)が、テレビの笑いが瞬間的、反射神経を刺激するようなものになっていった。学生時代のお笑いブームのときの記憶だが、実家に帰って家族と飯を食いながら見た、次々に登場する漫才に、大きな劇場が観客の笑いに大揺れするような熱気が、ブラウン管を通じて伝わり、思わず家人に「なんか、なにもかも世の中の底が抜けたみたいな笑い方やなあ」と漏らしたことがあった。
時はあたかもバブルの入り口で、就職して結婚した知り合いが買ったマンションが異様に根があがっているのだというような話を「そんなこともあるのか」と思いながら聞いていた。多幸症的な笑いを笑っていた一時代だった。


そうやって吉本新喜劇的な笑いはじわじわと主流になっていったのだ。その傾向は、松本人志の才能によって研ぎすまされたりしつつ、さらに強まり今日に至った。例外的な桂枝雀や、はるき悦巳(「じゃりん子チエ」)、三谷幸喜やのでバランスを取りつつ。久しぶりに見るようになった吉本新喜劇も演出を刷新して、それなりに笑かしてくれるものとして脱皮していたのを発見したのは2000年始め頃だったかと思う。


とりとめもない話になって来たが、生身のニンゲンにはできない漫画のギャグと、(かつては演芸場、今はテレビの収録現場の)芸人さんらの話芸や体を張った芸と、それぞれに存在価値はあるとは思うのだが、自由度の高く笑いのセンスをより高度に発揮できる漫画の方に軍配が上がると私は思う。作り込める実写やアニメのコメディ、小説の笑いなどともいずれ比較考察しなければならぬな。


昨今の第何次かのお笑いブームでは、さすがにやれることはやり尽くされている感があって、「お約束」ではすまなくなったようで、出て来たのが「べたやのう」という突っ込みだろうと推察される。目の肥えたテレビ視聴者から、熱心な客となり、見ているだけでは飽き足りず、プロになった連中の誰かが言い始めたと考える。


チャーリーブラウンの口の中に張り付いたピーナツバターを連想させるこの表現「べた」は、なかなか気の利いた言い方だと、私も思う。
次から次に出ては消える「若手」はすでに、両極端に分かれて来たようだ。さして面白くないけど当分目先の珍奇さで「しばらく」もたせられるもの。世間的に面白いといったん認定されれば、おもしろくなくても笑うような視聴者目当ての登用。(視聴者をバカにし過ぎですよね、こんなのはね)あるいは、これまでのテレビの限界にチャレンジするような破壊力をもつタイプ。残念ながら、いずれも長くは持たない。


もう、仕方なく、送り手側も受けて側も、「べた」な笑いしかないところで、「それ、べたやけど、べたすぎて、一周回ってかえっておもろいわ」とでも言わざるを得ない飽和に至った。


saturation トマトは昔ほどの濃厚さを失い、みかんは糖度をあげるために手を加えられたのと引き換えにかつての自然な酸っぱさは飛んでしまった。それでも人は、食い続けるしかない。笑いもそんな必須要素にはちがいない。(いや、わしはもう味が分からんニンゲンになってしもたんやけどね)


昨今では心理レベルの不信を通り越し国政の失調が目に見えて露わになる中で、人心をそらせるためにもテレビ上ではなくてはならないものだろうし、それ以上に社会全体のストレスや不安感を解消し、ちょっとでも健全な方向へベクトルを向かわせる責務がマスをターゲットとする笑いにはあるのだろう。この分野で仕事をすることにかつては憧れたおれとしては、たとえ糞面白くなくても決して現場の人を見下す気にはなれない。


受け手の側も、厳しい現実をくぐりぬける毎日を耐えて、つかの間の寛ぎタイムのテレビの前にあっても、おもしろくもないマンネリを「一周回っておもろいわ」と昔のように笑ってやるのはいまや国民としての義務ではないだろうか・・・・


そんな話をした。
クライアントは「日本って大変ですね。笑うのも我慢ですか、たいへんですね」と話を合わせ<お約束の>台詞を言いつつ笑っていた。シャレのわかるクライアントなんである。


続けて「薄気味悪い」という表現がピンと来ないという。
説明のために、『気持ちが悪い」と「気分が悪い」の使い分けを踏まえてから、説明した。こっちが分かれば、「薄気味悪い」は割合と簡単だった。(外的原因と内的状態という対立軸と、生理的状態と社会的意識的状態の軸がある。分からない人は、いろいろ例文を作って、考えてみればよい)


その話を学生1の人としていると、「じゃあ「きもい」は『気持ち悪い」と同じでしょうか」と話が発展した。検討してみると同じだと言う結論に達した。


さらに、「気持ち悪い」のと同じのは「うざい」。しかし、「きもい」はちがうということが分かった。
「おれ、ちょっと気持ち悪いから、ちょっとトイレ言ってくるわ」とは言えるが、「おれ、ちょっときもいからトイレ行く」とは言えない。
さらに分析を進めること数分。「きもい」は嫌いな対象に投げつけて、自我に影響を及ぼさせない悪魔払い的な用法になる。自分画『きもい」とは言えない.「気持ち悪い」のほうが内省的で、より近代的とさえ言えるのではないだろうか。(エヴァンゲリオンのリメイク版最後は違う終わり方になるのだろうが、あそこの「気持ち悪い」を「きもい」にすると、ぴったりするのか、違和感があるのかちょっち気になる)


「気分悪い」と同じのが「むかつく」(外的対象から生じた不愉快な事故の内側の状態にフォーカスしているのである。生理的感覚、意識の関与する不機嫌のどちらにも使えるのである)
「気色悪い」と「きしょい」(「きもい」とも同じ。対象にレッテルを貼る語彙だ)
・・・という結論に至った。


クラス授業では出来ない、こういった検討は上級者のプライベートの楽しみだ。
こんな成果は毎回のようにあがっているので、今後はこの場で発表していくことにしたい。