会社を訪問して打ち合わせ、姉妹に連続レッスン、通訳者へのレッスン

企業様への訪問なので、スラックスにワイシャツにネクタイ、足下はもっともクラシックなストレートチップで固め朝は早めに家を出た。自社企業研修生の将来を考えての日本語学習機会の提供を、当社<堺バーバルコミュニケーションサービス>で受けることになった。前回の紹介してくれた私の生徒さんと大学の先生に、発注元の社長様との4者の会談で、双方の基本的な考え方と枠組みは確認できており、メールのやり取りで今日までの準備も整い、実際の生徒さんとの引き合わせ、レッスン場所の確認、最終の打ち合わせ、現場見学などで、すぐ1時間が過ぎ、この後は、私にコースが任されることになった。いよいよ来週から、レッスン開始だ。


このように本格的に、ある程度のコストをかけて私どものような個人企業に発注してくださると言うことはなかなかないことである。ご期待に応えられるよう精一杯努めるつもりである。


この外回りの間の時間つぶしが結構もてあます。今日は革靴なので、まず足がへばる。普段はスニーカーにジーンズだからな。本屋で栗栖継訳「山椒魚戦争」を購入してまえがき、解説などを読む。この訳者の私にとっての最大のありがたい業績は「兵士シュベイクの冒険」である。私は名訳だと思っている。井伏鱒二ドリトル先生シリーズの名訳に並ぶ翻訳もの2大ありがとう大先生なのである。


この購入は昨晩のレッスンのテキスト「日本語中級読解入門」でロボットのトピックをやっているときに、チャペックの「RUR」から「山椒魚戦争」さらに「シュベイク」へと話がひろがったせいであった。私はあまり雑談は広げない、最低限情報のワンポイント提供にとどめる方針でやっているがこの辺の話になると申し訳ないが、少し時間をとってしまう。


昨日は「本当」の使い方で、現実と理想の対立と言う文脈で、現実ではなく、理想の方を差す用法をみいだした。意識せずに浸かってはいただろうが、学習者にとっては、意識しないと分かりづらいのではなかろうか?


だって、シュベイクという登場人物は、世界文学史上におけるドンキホーテハムレットと並べて論じてもおかしくないほど貴重な造形にまで達しているほどだからだ。抱腹絶倒の言動を岩波文庫4巻の至る所いくつも残しているひとかどの人物である。なのに知名度の低さといったら・・・。今日山椒魚戦争を読んでいて、冒頭で、ぶつぶつぼやき続ける船長は、自分を金儲けのために、つまり真珠探しのために辺境の海洋へ送りだした連中のことをぶつくさ言っているのだが、これを読んで、「シュベイク」の、これも冒頭近く、酒場の大将が、世の中のあれこれに悪態をつくところを思い出した。両名脇役に同じチェコ20世紀冒頭の2大作家の親近性を感じたのであった。どちらの訳も栗栖継の翻訳だ。生活感溢れる語彙の選択が嬉しい。


すくなくとも読書人を自認する方でまだ読んでない人にはお勧めである。
単におもろい読み物は見逃したくないという向きにもおすすめである。
今、重版出来で本屋に並んでいる。入手のチャンスですぞ。
そして、日本シュベイク愛好会をぜひともこの機会に。
(あくまで自主的宣伝です。どこからもだれからもなんにももらっていませんので、念のため)


ちょっと気になったので、ググって見た。シュベイクを読んだ人が何人かネット上に感想を寄せている。それだけでもよしとせねばならぬが、読み方が俺とはちょっと違うので、ひとこと付け加えたい。「お人好しで、お国のために尽くそうとすればするほど失敗して上官に迷惑をかける「バカな」おじさん」というイメージで語っておられる。いや、ちょっと待てよ。どこに目をつけて読んでいるのかい?と私は言いたい。確かに滑り出しこそそんな人物として描かれてはいる。ではあるが、すぐに一筋縄ではいかないドスグロイものの片鱗が見え隠れするようになるのではないか。作者でさえ、こいつはいったいどんな怪物になるのか測りかねているようなところがある。いわゆるベタな「一般大衆向けのお約束」が通用するプロトタイプの牧歌的シュベイクと、もはやそんな世界が蒸発していく、お約束とはミスマッチな第一次大戦という未曾有の歴史的大愚行大会、ひとが砲弾の破裂で次々にはらわたをえぐられ、あっというまに死体の山ができあがる世界を背景に、その渦中をくぐり抜ける20世紀の前衛的トリックスターの混合だと私は思うのだが。


ついでだが、こないだキンセラの「ダンスミーアウトサイド」についてアマゾンの書評に、「ネイティヴアメリカンの平凡な日常」なんぞというフレーズをいれている人がいた。そんな生やさしいものではないエピソードが満載だったと思うのだが。書いた人はアイロニーでもなく、ほんとうにそう感じているようだった。あるいは、強姦殺人や未成年売春、過酷な労働現場での差別待遇や事故死、そのほかもろもろの不幸を平凡ととらえられる豊かな感性の持ち主かもしれない。私は一定の偏見にとらわれているのかもしれないが、エンターテインメントのどぎついフィクションを読むときと、この手のシリアスな話を読むときとで、スイッチの切り替えが必要ではないかと、この書評を書いた人に対して、思った。ただしキンセラの筆致は、そんな日常を、本当は熱湯に浸かっているのに、ぬるま湯程度に思わせるくらいのユーモアや詩心をなみなみとたたえている。


夕方4時半から、夏休みで日本に来ているアメリカ人高校生とそのお姉さんのお二人に連続でレッスンを行う。こちらもたいへんひいきにしていただいてありがたい方である。お姉さんは今日初級前半が終わり、理解力の向上を、生活場面、仕事場面の両方で実感してくださっているとのことであり、それでこそこの仕事をやっている甲斐があるというものである。引き続き、初級後半への意欲が盛り上がっている。


終わってかなりへとへとながら、もう一件。プロの通訳の方のレッスン。今日は、作文作品の直し。数回に分けて行った内の今日が最終。ネイティヴ日本人の文章の推敲にも役に立つような指摘、教えている自分にとっても勉強になる発見も多数ある。
思わず、自分お説明にうっとりしてしてまったのは、「00は〜できる<こと>がすばらしい」の<こと>よりも<ところ>のほうが、どうしてよりよい表現と言えるのか、であった。


レッスン後、昨今の外国人受け入れの話から、話題が広がり、自然環境問題やら、いろいろと話が弾んだ。お互いあまり立ち入ったことをオープンにして来なかったが、ああ、やっぱり、そういうことを考えている人だったんだねえ、話し合えてよかったねえ、というような雰囲気で終えた。大人に教えているとたまにこういう出会いがある。


日本語教師として、いくたの出会いを重ねてきたものだが、文化、言語の壁を越えて、短いおつきあいの期間とはいえ,その間に互いの考えや気持ちを伝え合い、交換したりしたことは、どれも貴重な経験になった。忘れがたい思い出。人間の本質の発見。人間の多様性のすばらしさについての確信。などなど。


だから、ひとりひとりみんなが冷静に静かによく考えて選択を間違えなければ、ヒトはまだなんとかなるのじゃないかと思いたい。