48歳日本語教師のアニメ遍歴 あるいは 崖の上への道


まあ、これは人に読んでもらおうとはあまり考えていない。自分の覚え書きとするものです。たいがいの記事がそんなもんになりつつあります。


私ぐらいの年齢だと、もうアニメとかは生活の一部になっていて、しかしそれは子どもではないと思い始めたら、もう見なくなるものという感覚もあった。そうではあったのだが、アニメの方が成長?して、いつの間にか、大人の私の、大人になりきれない部分に訴える力で、追いついて来たと言う体験をし、現在進行中でもある。ちなみにゲームはちょうど浪人しているときに、ボールを跳ね返すものが表れ、大学入学した春に喫茶店のテーブルにインベーダーゲームが置かれ始め、「じゃまなもの」としか認識していなかった。そのまま、生活の一部には、ゲームはなっていない。


1963年、東映動画の「わんわん忠臣蔵」は北九州市の劇場で見たと思うが、そのときのことは覚えてない。冬休みのテレビのアニメ映画の定番だったので、家で何度か見た記憶はある。ツタの絡まるチャペルのようにこの記憶に絡まっているのは、ディズニーの「百一匹わんちゃん」だ。劇場の記憶もある。なんと、大雨の影響で床に浸水があったので覚えている。劇場で見た東映動画の心を持って行かれた甘い体験は、その後、私が8歳、9歳に見た
サイボーグ009シリーズ、(子供心に二作目が若干期待はずれだったようなうっすらとした記憶が・・・。)数年置いて、堺東の劇場で見た「空飛ぶ幽霊船」(小学校5年生か6年生)でピークに達する。まだエジェクションを知らない頃だったが、ラストのクライマックスではきゅううんとなった。少年期のエロスと深く結びついているのである。(その年の明けた冬休み、帰省先の母の実家でこたつに入って百科事典の性的な項目を読みながら私は生まれて始めての訳の分からない感覚を股間に覚えたのであった)


映画の世界観は、軍事力を握る巨大な悪が存在し、これに挑む純真無垢な巻き込まれ型主人公の少年少女というのが定番である。手塚治虫の漫画、宮崎駿のアニメでも、再三このコンテキスト上での変奏が繰り返されている。大友克洋スティームパンクアニメが、「イノセンス」と同じ年に公開されて、やはりこれをかなり真っ正直に踏襲しているのには驚いた。


この点、パトレイバーでは、警察権力側の武力装置をかっこわるくではあるが、「正義」を執行する登場人物を描いたのは、新しかった。伊丹十三の「マルサの女」に似た発想だ。これが攻殻になると、権力の組織内外との同レベルの武装集団同士の確執というようなハードコア度が増量して描かれることになっている。


閑話休題
劇場でもらったおみやげに「ハッスルパンチ」のキャラクターの3原色3枚のシール(こすりつけてはがすタイプのやつ)があった。自分はそのありがたみを理解せず、別々に貼ったうえに、青と赤の2枚は失敗してぐちゃぐちゃになったが、友達はきれいに総天然色のやつを筆箱かなにかに貼っていた。それを見て、ああ、あの3枚はこういう風にするものだったのか、と気がついた次第。黄色一色の自分のが恥ずかしかった。


平行して、幼稚園の頃のテレビの私のアイドルは「おバケのQ太郎」だった。テレビ放映では「おそ松くん」や「鉄腕アトム」がそれより少し早くてほとんどの回を見たはずだと思うが、最初のアイドルという意味では、Q太郎なのである。今,版権の問題で当時の漫画が見られないのは残念至極だ。ここでは漫画は、雑誌掲載作品あるいは単行本の紙の上に印刷されたものをさすこととする。


私にとって、Q太郎が重要なのは、小学校3年生から買い始めた犬の存在感にこのキャラクターが直結していることだ。子どものときに飼った犬の生涯の重要さは分かる人には分かるはずだが、幼稚園の頃にそういった情操的準備体験をさせてもらった感がある。さらに小学校2年から読んだドリトル先生シリーズで培った動物に向かう親近感といっしょに、実際に十年の生活を共に生きた「太郎」との交流の準備だった。


日曜日の夜7時半からのオバQは、「パーマン」に引き継がれ、「怪物くん」へと続いた。藤子不二雄の時間帯だった。
ところで、手塚プロからは、この辺のアニメで目が肥えた子どもの視聴者に、センスの高い「悟空の大冒険」がお気に入りとなった。これには、宇野誠一郎という音楽担当の方の容赦のないセンスの良さも少なからぬ貢献をしている。「ひょっこりひょうたん島」の音楽もこの方である。私はジャズのセンスはこれで身につけたのだろうと思う。ホーンセクションの使い方が素敵だった。ティファナブラスという映画音楽で好きになった洋物があったのだが、それとはまた違うホーンである。能天気なホーンが好きなんである。ナンセンスなギャグマンガだったが、いま思い出せるギャグは一つもないのだが、仙人の弟子の竜子の健康なお色気もたいへん気に入っていた。ひそかに理想のガールフレンド像として見ていた。


同時期の「リボンの騎士」はごてごてした中世西欧風あるいは宝塚風なのが、自分の感性にはいまいちピンと来ないものがあったのと、長編の込み入ったストーリー展開を追えなかった感がある。なんとなく見るものがないので見ているような感じだった。たとえば、特撮の怪獣映画のような最初から最後まで夢中に見た、というような見方ではなかった。それはそれでよいが、自分がはがゆいのは、「ジャングル大帝」でさえ、そんな見方しかしていなかったこと。どうも、話の内容が、当時の私にはついていけなかったようである。劇場版「ジャングル大帝」も見た記憶はあるにはあるが、オープニングこそ、それまで見たことのない色彩の鮮やかさに驚いたものの、気がついたら結末だったような、寝てしまったような気がする。


<小学校高学年の頃>
いやいや、若い衆、『巨人の星」というスポ根ものとよばれるジャンルがその頃あっての、わしゃ、団地に住んでおったんじゃが、家のテレビはカラーではなかったんで、一階下に住んでおるカラーテレビのある家にお邪魔して見せてもらったもんじゃ。「明日のジョー」かい、おう、よく知っておるのう。あれは、原作の漫画で十分で、アニメは別にわしゃ見たいとは思わんかったよ。


天才バカボン」は家族全員で楽しんでみておったなあ。もううちののテレビもカラーになっておった・・・


中1ぐらいの「バビル2世」の途中まで見たあたりで、基本的にアニメは見なくなったようだ。大人向けの「ルパン3世」などもクラスメートが話題にしていたのを、アニメを大人向けに作ると言う作った大人の発想が貧しいような感触が先に立って抵抗感があった。今にして思えば、戦後漫画
の第一世代原作もの中心のアニメによる初期の成功期を通過して、それを見て大きくなりつつある層の自然成長や、制作側の体制維持などをにらんだ試行錯誤が始まった頃、私はとりあえず、なんか違うし、ほかの面白いもの、大人に向かっていく自分が関わるのは、違うものだと思っていた。
実際、エンターテインメントにしても、小松左京筒井康隆の水準から見たら、あるいは、日本近代文学や外国の文学作品と比べた場合、テレビのアニメ、さらに実写のドラマなども、あまりに受け手の水準を低く見積もっており、それは中学生の目で見ても、制作者の水準の低さすら透けて見えるようなレベルの低いものだった。技術の稚拙さだけではなく、志の低さときたら、もう、ほんまに、あほとしか言えんわ。


しかし、始めてLPレコードを買ったのは、ピーナツシリーズの激上映が第1作のサウンドトラックだった。どうです、私って、ほんとに趣味が渋いでしょう。あ、いや、読んでもらうためのものではないのだが。A boy named Charlie Brown.中学時代、私は女子から影でチャーリーブラウンと言われていたと、大学生も終わりごろに聞いたのだった。


高校時代に見たものは、「宇宙戦艦ヤマト」の再放送、高3の受験期に夕方の再放送がちょうど気分転換のツールになっていた。SFとは全く無縁のものとしてみており、その点ではバカにしていた。人間ドラマ部分はそれ以上にバカにしてみていた。飛ばせるものなら飛ばしたいひたすら恥ずかしい演出は、むしろ、受験勉強なんかばかばかしいと思いながら、仕方なくやっている自己嘲笑が「地球滅亡まであと00日」という毎回の引きに直結していた。


高校時代、現代国語の先生で恐るべきアニメに詳しい人がいた。青白いインテリタイプ。サルトル実存主義が・・・なんて高校生のほとんどがついていけない深遠な話題をぼそぼそと前列の学生にしか聞こえない声で。一部の文学少女の学生にはカリスマ的な方だった。私のクラスには3年間担当が異なっており授業は受けなかったのだが、私が文芸部乗っ取りに社会科学研究部の指令と、個人的なもくろみなどでうごいたら、その先生が顧問でいた。
日本アニメの爆発シーンは世界一すごいということと、マックスフライシャーやハンナ&バーバラのアニメへの貢献を学んだ。ディズニー以外のアニメ制作者を意識したのは,この先生のおかげだ。空飛ぶロッキー君別名ブルウインクルショーを密かに高く評価していた自分のアニ眼の高さに自信を持った。


もうひとり、「太郎」の散歩となぜかつながることが。現代国語の先生とも偶然同姓。近所に住んでいた中学の同級生で、おれよりいっこ偏差値の高い高校に行っていたヤツと散歩の途中で話し込むようになった。この友達がいつのまにやら、宮崎アニメを熱く語る人になっていた。曰く「カリオストロの城」の水のシーンが・・・。私は、ふ〜ん、そんなもんかねい、程度の反応。現代国語の先生の薫陶があったとはいえ、歴史上の知識としては押さえていただけで、なにか可能性のあるジャンルとは考えられなかった。


大学に入った80年代開始数年前、新入生歓迎合宿で、「未来少年コナン」の主人公が(裸足で、とまで言ったかな?)飛行機の上を走るシーンを取り上げてとくとくと語る一年先輩の話をこっそり鼻で笑いながら、適当に「あしらっていた」私にコンバージョン(改宗)が訪れたのは、テレビ放映の「風の谷のナウシカ」で、谷の衆が反乱を起こすシーンをチャンネルを変える途中で見て、なにやらただならぬ迫力というより、とにかく面白そうであり、クオリティー高そうであり、ほかにない真剣さも感じられ、あわてて録画したときだった。


その当時、名前を言うのも恥ずかしい「同時代文芸会」という文学や思想の学習サークルに入っていた私は、なにかの折にこの作品について触れて、熱くなり、全員から白い眼で見られたものだった。結構ロックや漫画などは受け入れ可能だったようではあったかなあと思うが。よくは覚えてないのだが。


大学生の頃で、唯一結構おもしろがって見たのは、ご多分に漏れず「ガンダム」だった。これはアニメにしてはまあおもろい、程度の評価で、他のジャンルの優れた作品と並べてよいものとは、今でも思わない。人間ドラマ部分は、むしろ青臭くて、SF部分を見るために我慢する箇所と観念して見ていたものだ。過渡的な作品と言う評価でいいんじゃなかろうか。それだけでも十分立派な功績だ。


その後、宮崎駿だけは、例外的な優れた作り手だと見なして、新作の度に劇場には足を運んだ。押井守監督は、この人については文芸評論を読むかたわら、その中でたまにちらりと触れられていたので、名前を認知するのは割と早かったが、「ビューティフルドリーマー」がどんなによいと言われてもレンタルで借りてみようとさえ(恥ずかしくて)できなかった。「うる星」の漫画原作は全巻揃えたが、あれがアニメになると私は恥ずかしくてみられなかったのだ。特にテーマソング。なんじゃあれは。ひたすら恥ずかしい。少年マガジンという、全共闘世代の反抗心をそのまま乗せていたような雑誌に、「ラブコメ」が掲載されてしまったときのあの忌まわしい感覚、反体制的ロックバンド「Chicago」が甘ったるいイージーリスニングしかやらなくなった失望、ああ、もうこりはわしの馴染んだ<あれ>とは似て非なるものだ、と感じたのである。(さすがにもうすぐ50歳なので、いまはもう恥ずかしくない。)


先に書いた同時代文芸会で、「お前は、錯乱坊(チェリー)みたいや」とちょいちょい言われて、その度にあんなの見てんのんか、恥ずかしいやつやなあと、思っていたものだ。わたしにとっては、いまだにあの作品は、漫画で読むものであって、アニメで見るものではないのである。そういえば、「子泣きじじい」とも言われたなあ。


ええと、押井守監督作品を集中固めうちで見たのは、漫画の「パトレイバー」の連載途中からはまったのがきっかけだった。山間部の日本語学校暮らしの寂寥をかこつ身に、良き慰めとなるものだった。漫画は。ところが、「パトレイバー」のテレビアニメ版を見たときは監督の存在はあまり意識しなかった。監督の手を意識したのは、大阪に戻ってから、攻殻機動隊テレビ版第一期を見てから、かもしれない。劇場版のGhost in the Shell へ進み、それまでの全作品を見た。見終えてから、「イノセンス」は劇場公開版をリアルタイムに劇場で見た。


しかしながら、エヴァンゲリオンは、ヴィデオで一本目だけ借りてみて、「使徒」の設定が新鮮に映ったが、人間ドラマ部分を見続ける気にはならず、続けて借りることはなかった。


さて、これで、昨日見た攻殻機動隊2.0について書く準備ができた。
次回もこの話題である。
ごめんなはい。