攻殻機動隊2.0への道
はいっ、とことでね、わたし、昨日劇場へ足を運んでですね、攻殻機動隊2.0見て来たんですよ。草薙素子が怖い顔になってたかなあって思ったんですけどね、新編集版以前のはうちにレンタルしてしか見たことなかいから、比較できるほど前のをちゃんと見てはいないんです。でもね、眼がね、素子の眼がね。たとえばバトーとボートで会話する中盤の重要なシーンでですね、素子の眼が冷たくてね、それが、よかったです。鬼気迫るものがありました。能の伝統をいやでも思い出させる演出でした。ジャパニメーションならではでしょうかねえ。劇場まで足を運んでみてよかったと思いましたよ。
生と死、あの世とこの世、物理世界と情報世界。どちらにもあり、どちらにもいない。
原作漫画の素子は、まだまだティーンエイジャーっぽい不良少女的な性格設定になっていますが、劇場版では、大人の匂いむんむんで、しかも、哲学的かつコンテンポラリーな悩みを人類を代表して背負っちゃって、けなげ!
「ささやくのよ、私のゴーストが・・・」これがアクションシーンではやり手のためらいなくごんごん任務を遂行して行く強さに結びついてます。一方、ゴーストの実在さえ、疑わざるを得ない。蝶番のような決め台詞になっておるのですな。ネットと直接結びついて「電脳化」しているという設定に、全身擬態化しているという設定までついて、近代合理主義哲学の祖デカルト以来の「私」について新たな問いを背負うことになりました。
オープニングの網膜のような細胞がぎっしり並んでいる柔らかそうなツブツブの眼のくらむような平面に、極細のファイバーケーブルがすーっと接続して行くシーンは、私は眼球剥離のときの治療でレーザーをあてたときの残像を思い出しました。
無数の神経繊維の接合体としての人体。
わたしは、脳の本体と嗅覚の感覚器をつなぐセンが、ごつんと頭を打ったせいで、切れちゃったせいで味と匂いにいろいろ問題が生じているものですから、このようなものを動く絵で見せられると実感がわきます。
この映画が、和尚スキー兄弟をいたくインスパイヤーして、あの「マトリックス」のシリーズに至ったということですが、この、世界人類の表現のある達成といってもよい映像による新たな人間観の提出という事態にいたった、私なりにフォローできる範囲で振り返ってみたいと思うのであります。
ときは86年に戻ります。わたくしも、まだみずみずしい26歳だったんですねえ。お腹のでっぱりはまだまだちょっと厚め程度、大阪鶴橋風月のミックスモダン焼き程度。社会人なのか学生なのか、自分でもよくわからないあやふやな状態。実は良く覚えていない。その頃に、出た、サイバーパンクと銘打たれた新しいSFのムーブメントだった。
その代表的かつ最高傑作的なのが、どうやらウイリアムギブソンの「ニューロマンサー」だったのです。脳みそとコンピューターのつながったところを感覚的に描いた。登場人物の女性が歩きながら自分の胸に触った感触を、主人公のハッカーが接続しているので同時に感じる場面で、私はひっくり返りました。記憶に基づいて書いているので、細部の間違いは、ご容赦くださいよ。
ネット内の情報として肉体が死んでも生き続けている人格の存在。リアル世界ではホログラフなどが新たな世界解読のモデルとして提示されたりしていたころと前後していただろうか。
この作品から一直線に士郎正宗原作の作品世界につながっているだろう。また、絵のスタイルは大友克洋の革新を受け継いだ人の一人といってよいのだと思う。とにかく、この頃、テクノロジーが世界の風景を変えて行くのに見合った表現の模索が、今日では当然となった風景の予見ともなっていたのかもしれない。さらに重要なのは、そのころも盛んに論じられたことだが、テクノロジーが、我々自身の存在背も変貌させざるを得ないという認識。
もっともらしい解説をウイキペディア日本語版でみつけた。「ニューロマンサー」の猥雑な未来世界像を準備した映像作品として「ブレードランナー」があげられている。
これはもっともなことである。もはや定説、正しい理解と言ってよいはずだと私も考えている。
さて、「ブレードランナー」荒廃した地球へ、人類の主要な部分は火星の植民地に入るにも関わらず、地球の生活に甘んじている人々の世界。そこへ人間そっくりの「レプリカント」が人間への隷属から逃れてくる、それを見つけ出して処理する賞金稼ぎのデッカード(ハリソンフォード)。主役を食って話題になったのは、猥雑な未来都市の描写だった。漢字のネオンサインがエキゾチックな未来都市演出に多用されていた。
この原作がフィリップkディック「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」1968年の作品。いやあ、これとなると、わたしなどは、まだ、9歳です。
今読んでも古びていない、テクノロジーの進展による「私」の存在の根本的な揺らぎが、すでにこの作品で明確に描かれていた。
なんと予見性に満ちたPKディック! 恐るべしディック! 今読むと、さすがに設定上の破綻かなと思うところもあるようだが、それでも価値ある作品を残したディック。
自らがニセの記憶を埋め込まれたことによって、アンドロイドであることさえ知らない存在を見て、自分が何処まで自分であると思っている自分と一致するのか分からない。こんな設定を考えついた作者は、いったい・・・・?
主人公デッカードは質問をしながら瞳孔の反応を見て、感情移入能力が真の人間とアンドロイドが違うことによって生じる反応時間のずれから割り出すと言う設定になっている。
デカルトの「我思う故に我あり」さえ、素朴な昔話になってしまった。
二日続けて、こういうことを書いているのも、この問題系と私の関わりを思い出しつつ、「自分」の土台の再確認の意味でもある。
うん?なんか変な話だな。
私は「私」を問うた他人の考えた軌跡を追体験したという記憶に頼って自己確認しているってこと?
自己改変による進化形態が機械化であるものと、遺伝子操作によるものとで、ヒト同士が対立し争うというサイバーパンク作品もあったな。『スキゾマトリクス』読んでないけど。
生体組織内の個別の細胞が独自に増殖と結合を行い、細胞群が巨大な一個の生命体となって、地上の風景がまったく変わってしまう作品「ブラッドミュージック」はそのラストシーンのイメージが、「AKIRA」に重なる。
一方で、ある程度批評的距離を保ちつつ、また、優れた作品を享受し楽しもうというスタンスから、最後にまとめに代えて、文化の伝播と発展という現象を、ここで、再確認したい。
北米大陸と日本の間において、このモチーフの行ったり来たりが見られたことは、某大型掲示板で「パクリ」とかいうような矮小化を許されない、よくある文化圏を超えた影響による新たな文化創造の過程として認識するべき、人間の営為である。
私の思い当たることだけでも、R&Bが準備したプレスリー、ビートルズ、ローリングストーンズの台頭、こうして生まれたロックがジャズへ再影響を与えたこと。アフリカ大陸のリズムとスケール、ダンスと曲のモチーフが中南米に伝わり、数々の音楽の新たなジャンルを生み出し、その商業的成功と定着はアフリカへも伝わり、アフリカの音楽スタイルに影響を与えたこと。それがまた・・・・えいえいと続く大西洋をはさんんでの再影響合戦。