『崖の上のポニョ』感想。ネタばれなし。


いやあ、なんか、こうスクリーンから潮の香りや
ときには風が吹いてくるような、
自然界の<気>の流れを体感したような感触を持ちました。
映画で<気>を感じたのはホウシャオシェン監督の「恋々風塵」ぐらいだ。


広島に住んでいたときのロケーションが、近い感じの場所だったので懐かしさも相まって、楽しむことが出来ました。海辺の道路を日常的に走っていましたので、道に波が上がってくる感覚は、リアルに分かりました。


フジモトと海の女神と海の世界という「あちら側」のことはあまり詳しく出てきませんでしたが、そこはそれ観客として、あれこれ想像する楽しみを残してくれていると考えましょう。


海の女神は、私にとっては、なぜか歌手のSandiiを連想させました。パシフィカなんてアルバムのある、いまやフラの伝導師のような位置にいらっしゃいますが、なんといっても、その神秘な雰囲気と大人の女性の匂い立つようなお色気が、私の眼にはsandiiにしか見えませんでした。


また同時に、女神の存在こそ、これぞアニメ的表現!ほかでは、実写やCGでは見られない。宗介の母親リサと女神が並んでいる遠目のシーンでさえ、実写とアニメの合成のような不思議な感触を持ったものです。(それにしても二人はどんなことを話し合ったのでしょうか。ヒントくれえ〜)


ちょっと興奮して、映画観覧後、ほかのことをする気になれず、「折り返し点 1997〜2008」を書店で購入して、仕事までの空き時間読みふけりました。


それによると本作品でのフジモトの位置づけが、すごいものを背負わせつつ、あんまりな境遇にしてあったので、笑ってしまいました。でもよく考えると、かつてのメーセージ性の濃厚ないくつかの作品の主人公的なポジションなわけですが、ポニョの世界ではこれでよいのだと納得させられてはおります。


しきりに、中沢新一の「世界最古の哲学」シリーズの神話読解の記憶が甦りそうになっては、ひいていく映画館鑑賞体験でした。


思えば、前作品の「ハウルの動く城」は、どう見ても、電話の呼び出し音がなるたびに、夫の過労死の知らせではないか、不条理な上司と喧嘩して事件を起こしたという連絡ではないかと心配しながら暮らしている妻の立場、そういった不安の中で子育てにいそしむ若い母親のための、おとぎ話としてしか見れませんでした。


「戦争」の成り行きはお話の背景にすぎず、その点で、ライトノベル原作のテレビアニメみたいなことをしやがったという感想を持ち、成人男子独身の私にはヒロインに感情移入しにくい結果となりましたが、自分の幅の狭さを、今、あらためて思い知りました。あの映画は確信犯的にそのような意図の映画だったのですね。あまりに何もかも求めてはいけないですね。


ハウル」をああしたから、今度のポニョはこうした、ということでしょうか。私は5歳の男の子に戻ることはたやすいですので、問題ありませんでした、今回は。心の深いところを刺激され、マッサージされたようです。いろいろ分からないことが残るはずですが、気になりません。映画ではなにもかもを解決しない、という方針のご様子ですし、私は、素直な良い観客に分類されるのでしょう。


それから、全部手書き、したがって、CG使用なしとか、自然描写がリアリズムと昔ながらのアニメの混合になっているとか、わざわざローテク、アナログテクでやる世界の完成度の高さを目指したことがかいま見られます。それは、細部ではなく、見終わったあとの「感じ」に顕著なようです。


で、肝心のヒロイン、ポニョなんですが、おとぎばなしの海の世界と人間界とを往還するメタモルフォーゼは相当に極限から極限へ、人面魚から人の女の子まで、その中間形態を経由して、いろいろ様変わりしますが、ちゃんと全部つながって見えました。お子たちにはこれはかなり嬉しい贈り物ではないでしょうか。がらんがらんの劇場で、一人で見ていたので、子どもの反応が気になるところです。


アニメは動きます。私の感想は、もう止まってしまっています。でありますので、実は、見ていたときの、カントクめ好きほうだいしやがって、などと思いながら、あれよあれよ、口開けてにんまりしながらぽか〜ンというじょうたいのあれやこれやは、思い出せないのです。もっかい見に行くかもしれません。自分の脳が確実に年を取ってしまっているのが、これで分かる。


攻殻機動隊2.0では、「わたし「ふ」女子だ」といわんばかりの若い方が、「死んだらええねん!」と劇場をでがけにお友達に言い放つのを聞いてしまったのですが、こちらは、小さな女の子が「ポニョかわいかったなあ」とお供のおばあさんに言うのを聞いて、あ、いけてたのかな・・・と胸をなでおろした次第でしたが。(おばあさんお返事が、生だったので、おばあさんにはしんどかったのかな,とは思いましたが)


本では,こどもにアニメを見せるな、という自己矛盾のある主張を敢えて繰り返していらっしゃることについて、私もそれは賛成したいです。私自身も、無料見が出来るからと言って、過度にアニメを見るのは控えなければいけないと思いました。日本語学校で言うたら、学生募集をいい加減にして、留学生の数なかりを矢鱈と増やすな、というようなことになりますでしょうか。


それにしても、「折り返し点」では、大量消費文明の行く末に関する切迫した認識が至る所に表明されていて、映画では楽しませてもらい、本では楽しんだ分の3倍ぐらいじりじりさせられました。自分と世の中を問い直すと言う意味で。


えらい時代になったもんです、ほんま。知っている人で、農業を始めてしまった人もいます。(参照:Jaki's homepage syunincyhanのアンテナからどうぞ)


とにかく、冷静に正気を保ち、理性的に振る舞うよう日頃から努めねばなりません。動物的直感にたよっていては、叫びながら走り出していても不思議じゃない、この空気の熱さ・・・。


その後、書店を徘徊中に2007年はワーキングプアの反撃反攻が始まった年という小森陽一と言う人の面白い本を見つけました。下手な日本語学校でもありそうな、事実私も、経営サイドに立った方のご無体な言いようを何度かきいたことがある、時には言われたことさえある。そんな「心ない」言葉の捉え方、言い返し方の本をところどころ立ち読みしました。


そこで紹介されていた雨宮処凛(かりん)さんの「生きさせろ!」を見たくなって探しましたが、その書店にはありませんでした。
日本語教師の昔からの不安定待遇に世間がおいついてきて、いまや世間のワーキングプアは立ち上がってるという事態になってしまっているんですねえ。


私も、こないだ労働法の本を買って来て、自分の会社で将来いっしょに働いてもらう人との法的にも健全な関係構築を目指そうとはしているんですが、と、この部分はあからさまな自己宣伝しておりますが、日本語学校の教師の皆さんも、専任か非常勤かの区別なく、連帯して、待遇改善のためにがんばってみてはどうでしょう?いろいろとあると思います。たとえば、まず学生目線で、学校側に改善してもらいたいところをいっしょに意見を言って行くとか。法律では当たり前の時間外労働分への支払いを、眼に余る部分(居残り採点の時間など)については求めていき、交渉するとかです。


大阪の学校では、教師自身が組合を作ったケースもあります。なにも揉めさすのが目的ではありません。利益を追求するあまり、ひどい待遇や状態を平気で押し付けて聞く耳を持たない経営者も、なかにはいらっしゃいますから、そのようなひどい場合にも、方法はある、希望はあるという提案です。法律は、働く人の味方です。たとえば、法律によれば、(現実はどうあれ)中間搾取はしてはいけないことです。(そこまでの意識は、私にもなかった。恥ずかしい)


まあこの、子ども向けの映画を見て、映画自体の面白かったことに加えて、監督の子どものためにも真摯に「仕事をする」姿勢にも刺激されて、わたしもなにかせんければいかない、という気になって、こんな余計なことまで書いているようです。頭の中を、ポニョのテーマソングがまだ鳴っています。いまは街を歩くとこのメロディーを聞きますからね。


みなさん、それでは、また。


追記:7月31日。たった今ウイキペディアを見て、驚いた。カントクは<鞆の浦>に長期滞在していたとあるではないか!
NHKのドキュメンタリーの風景を見て、ひょっとするとそうではないかと思っていたのだが、なんとなく尾道だと思い込んでいたので、打ち消していたが・・・。私が住んでいたところに,より近いところだった。まあ、それだけなんですが。