日記を書く


ひょこっと「崖の上のポニョ」を見に行ったのが、先月22日。今年の正月エヴァンゲリオン劇場版(旧版)を見て脳に直撃を受けその負傷が回復する間もなく、『ポニョ』も地球がえらいことになったので、(なりそうだったので)それから、頭の中で宮崎駿祭りが始まり、・・・・あっ、忘れとった、やあ、みんな。日本語教師のスキル一本で独立して生計が立てられるか実験中のsyunincyanです。よろしく。→で、祭りが始まり、攻殻2.0CG版を見て、プチ押井祭りも開催され、間に第二のふるさと日本語学校での同窓会を挟んで、スカイクロラを見て、昨日のNHK宮崎駿を取り上げた「プロフェッショナル」を見たので、そろそろ、空いている時間を仕事に戻さなければなりません。


二人のアニメ監督から学んだのは、「よく考える」ことだ。本で読むと、二人とも、ありとあらゆることの本質を、アニメにして観客に見せることを軸に、粘り強く考えている。小説家と違うのは、自分の責任で追求した課題を表現するにあたって、スタッフとの共同作業に入ることだ。そのために説得力のある言葉を準備する必要があるから、粘り強く考えなければならないということもあるだろう。


ただ、両者ともに、ピークはもう過ぎたのようであるのが寂しい。そうして、あの人はあれ、この人はこれがピークの作品だったのだなと分かってしまった。貪欲な消費者としては、次の大物の出現を楽しみにしつつ、マエストロの余裕の作品を楽しむのが正しい態度であろうか。
(というよりは、日本のアニメ界のピークをもう過ぎたのかもしれない。8月10日放送のFMラジオ番組の鈴木プロヂューサーの番組での押井守監督の言によると、20名余りのアニメーターが50代に近づき、そ後継世代はそのレベルに達していない、という発言をしていた。それゆえの3Dであるともとれる発言が続いた)



ついでに、今、大江健三郎の「洪水はわが魂に及び」を読んでいるのだが、今年始めて読んだ三島由紀夫との対照と同質性を感じている。政治的には正反対なんだろうが、強烈な「日本の現状」を拒絶し、別個の日本的リアリティの構築を目指しているような文体から、現代の日本語をも、そのままでは通せないという意志を感じた。三島は古典の日本語、大江は翻訳の日本語。
しかしまがら、久方ぶりに、大江氏の作品を読むと、「威嚇されて、恥ずかしい」という「綿の国星」のお母さんの台詞を思いだす。そんな感触を抱く。きっと、あの文体がだめだという読者は、無用に緊張して子猫のくせに『威嚇』してみせる生き物に対したときのお母さんのような感覚なのだろう。受け入れられた人たち(私を含む)、受け入れられた時代(私より少し前の時代、世代)にかかっていたある種のバイアスに興味が涌く。


「洪水は我が魂に及び」や村=国家=小宇宙の歴史を綴った「同時代ゲーム」などから、手塚治虫(特に後期)、宮崎駿と共通する現代日本
の課題に関わる物事を表現してると感じている。大江健三郎との「ライバル関係」にあった、筒井康隆のポジションがアニメの世界では押井守にあたるのではないだろうか。


話は次へ移る。生と死は二元論的に、お互いの否定として定義されるが、そんなもんではまったくなく、死あるいは無が生成の源泉であり、生は死あるいは無から生じ、そこへ帰るものではないかと考えてみる。そう考えた時、なぜか、10歳から20歳まで飼っていた犬が、宇宙そのものと対話する通路のような存在だったような気が、ふと、したのであった。


また、話は次へ移る。imprinted things of childhoodをさらい直したい気持ちになっておる。
アニメ遍歴をブログに書いたが、それだけのおっさんと思われたら、かえって自分で自分の足を引っ張るようなもんだ。
ほかにも、小説(おもに純文学とSF)、音楽、米国テレビドラマ、映画、女性など遍歴したものは、まだいくつかある。
今、書き留めておかんとなあ、という気がしているのじゃ。
ほかにも、家族との人間関係で刷り込まれた心理的傾向なども浚渫したいです。


またまた話は次に移る。同窓会に参加して、考えてみれば、面白いエピソードがたくさんある。書き留めておかんとなあ、ということはこっちにもたくさんある。大阪日々新聞によると、去年の新生児だと、両親のどちらかが外国人であるのは30人に一人の割合だそうだ。平均なので、地域によって、偏りがどうなるかはまちまちだろうが、量が質の変化に至るほどの変化ではないだろうか。また、これまで韓国人朝鮮人が一位だったのが、去年で中国人が一位になったそうです。いわゆるニューカマーとオールドカマーの子孫の割合も変化したわけだ。ちなみに第三位はアメリカとのこと。これは英語教師が多いのでしょうか?
さて、私ら日本語教師の外国人との異文化感交流経験は、これからの一般日本人にとって有益なはずだ。編集作業急げ!


またまたまた、話は次へ移る。宇宙の歴史、地球と生命の歴史、人類の歴史など追体験する勉強の旅、パラオへの実際の旅。世界の貧困と紛争を見る旅、地球の大自然に触れる旅、文明化していない自然と共生している伝統的生活文化を維持している人々と出会う旅、哲学と学問の歴史を辿る旅、世界の文学、音楽、映画の歴史と旅、などなど。あれもこれも。なあ〜んにも手がついていない。


またまたまたまた、話は次へ移る。なんとか、翻訳を業務として請けられる体制は可能な状態である。これを利益につなげるルートを一回通すことだ。


ま、ここで吐き出して、ちまちました日常に戻るわけだす。
夏真っ盛りん。
8月6日か。