スカイクロラ2回目見た。そして、ドキュメンタリー「おいしいコーヒーの真実」も見た。

空中戦場面と、それから、無意識まで表現したという世界のアニメでも希有な、ひょっとしたら、最初で最後かもしれない挑戦をもう一度よく見るために、また劇場に足を運んだ。大人買いではないが、貧乏だったときには、できなかったし、しなかったことだ。若い頃に比べると集中力が桁外れに落ちているってこともある。


今の若い人にいいたいことがある。と言っていた監督さんだが、「言いたいことがあるとは言ったが、それを言うとは言ってない」と公開後のインタビューで開きなおった監督さんでもある。そのままは受け取れない。たとえば、脚本をお任せにしながら、押井監督作品っぽい長い説明的な台詞が一カ所だけあるが、額面通りには受け取れない。2重3重の皮肉やトラップが仕掛けてあると思う。そこを反芻していて、私は作品の解釈が幾通りか出来るぐらいには作ってあるのだろうと思った。女子キルドレで隊長の戦争についての台詞である。


映画設定上の作品世界内の論理、映画の外の観客や制作者を取り巻くリアルな現実とのずれと部分的一致、キャラクター設定上の偏り、これらを重ね合わせると解釈は一つとは言えない。ずるいと言えば、ずるいが現代のフィクションの表現は多かれ少なかれこういう手法に頼るのは仕方ないのかもしれない。


前半から中盤に至る辺りで水素が激昂する場面の後のシークエンス、ここも、重要な場面だ。だれるところは、一個もない映画なのに、馬鹿な観客が小声とはいえ、十分わっしの集中をそぐ会話をしやがった。隣の、そのまた隣の席の夫婦らしき二人連れだった。それが気になって台詞を聞き逃し始めたので、さすがに私は小声でたしなめた。映画が終わってから、どんなやつかと思ってみてみたら、同年齢の者だった。しかも、男の野郎がトイレに行ってもよいかと女に言って、そこから映画に関係ない話を続けていたらしかったことが二人の会話から分かった。近い世代の者として、さらに腹立ち倍増である。できるうるものなら、身元を突き止め、裁判にもちこんで、映画代金を弁償させたいし、二度と劇場への出入りをできないよう劇場が出入り差し止めにすべきである、と腹立ちまぎれの空想をしてしまった。


閑話休題


キルドレの設定も変だが、なかでも水素はさらに変である。変になる必然性も映画の後ろの方でちゃんと明かされるが、それでけではない。見かけ以上に内実はもっと変なのかもしれない。SF的設定を含む神話的映画としてみるのが適切なのだろうが、ルービックキューブのように現実的な要素を幾重にも組み替えた設定でもってしか、達成できない次元の表現もある。


ティーチャーが私は気になる。現実の学校の教師でもあった私には、映画の中の「ティーチャー」は魅力的な「登場人物」だ。パトレイバー後藤隊長が部下に恵まれず仕方なくやっているのか。内海課長のような人で、とにかく飛行機乗りとしての自分しか眼中にないタイプなのか。女子隊長とも何かあった程度ではすまなさそうな因縁がある。そうとすると性的嗜好にもえらくやばい要素が。そうなってくるとむしろ中上健次の秋幸サーガの龍三ぐらい「怖い」人でないといけない気がする。なにしろ『キルドレ』でもないのにあんなことを生業にしてるのだ。じゃりん子チエのテツとは違うタイプに相違ない。テツと違ってティーチャーは殺してしまうので、後で都合のいい「友達」になれない。崖の上のポニョでも、私がいちばん気になったのはフジモトだ。夢のような結婚を実現して、あのように憔悴しているとはどういうことか。宗介も気をつけるんだぞ。なんて、自分に近い登場人物が両作品では狂言回し程度であることが、気にかかる。碇ゲンドウティーチャーの比較も誰かやってくれ。


ある意味、教師にとっての理想の教師像が「ティーチャー」かもしれない。かといって、真似して、教師がやたら厳しくなっても、学生にしてみればかなわない。仕方なく、ほかに行く場所がないから来ている学校でお互いの存在を賭けてぶつかられては、たまらんだろう。まずはサラリーマンとしての優秀さを保って教育マシーンとしてのよい性能を発揮してくれる方が後々の功徳である。そのうえで、一年に一回きり授業そっちのけで、自分をさらけだす程度でいいのでは。そんなんでも、映画の中で空の上の「ティーチャー」が象徴的にやっている「若者殺し」の儀式は可能ではないだろうか。「大人への通過儀礼」の代わりとして、機能する相手には機能するだろう。続・スカイクロラがあったら、ティーチャー中心のエピソードを一つ入れていただいて・・・・めっちゃ難しかろうなあ。絵にするのが、なあ。


(18日の今日読み返して気がついたが、映画の中では「象徴的に」ではなく「実際に」殺しています。これを書いた人は頭がどうかしている。それは私だが・・・)



ところで、エンターテインメントのお約束は、国内外のいろいろな問題の議論を避け、(わたし自身もそういうお約束のおかげでエンターテインメントに耽溺し『現実逃避』をしてきた者であることを認めるが)より純粋にいまの日本人の状況、特に就職難から非正規雇用拡大の時代を生き延びる苦境に立たされ、しかも心のよりどころさえ何処においてよいのやら、という生活にさらされている人たちに訴えうる<世界>の構築は達成できたのかもしれない。だが、とにかく一筋縄ではいかない監督さんの作品だ。庵野監督を自分の作品に対する観客の需要状況が一歩間違えばファシズムだと言わしめ、その後の方向性を変えさせたようなワールド、そこで押井監督は大人向け、正確には<変わった>大人向けの作品製作を指向し、徐々にファンととともに年齢を上げて成功して来た方であるのだろう。結構自覚的なはったり屋の部分もあるのではないか。ビジネスとしての映画製作と、作家としての両方を練りにねって作っているのだから。ひょっとして、松本人志のような「転向」あるいは「変節」あるいは「衰弱」に向かうのではるまいね。


ジャンルのお約束を壊して来た人が、ジャンルのお約束にのっかって、安穏としてしまい、自己満足に浸るのを見るのはもう嫌なので、気をつけてほしいものだ。そうはならないと信じたい。



で、突然だが、フィクションのお約束に飽き足らない向きにお勧めなのが、この一本。


大阪では、十三という『関西の新宿』みたいなところで、久しぶりにミニシアター系の映画を見た。
おいしいコーヒーの真実」(原題「blackgold」)



ここで私は、「おいしいコーヒーの真実」原題「blackgold」が示唆する、アフリカのコーヒー生産者の現状、苦境が、不公正な世界的規模の経済システムによってもたらされていることのほうが、日本の若者の諸々の問題より重要だというつもりはない。言いたいけど、もしそういうと、反発を食らうぐらい日本人の多くは、外国のことに無知で、無知故に誰のおかげ(=犠牲)で食えているのかさえ知らずに、テレビでしか知らない国の人々を勝手な空想でバカにしたり蔑んだりしている。そんな人も多いので、そうは言わない。外国の文化や言葉や習慣や皮膚の色が違うと、同じ人間でさえないほどに理解不可能だと思い込んで,自分たちとは違うのだと興味さえ持たない人の方がまだまだ多いし、(スカイクロラの描き方で考えどころはここではないか、なぜ国籍設定がああなっているのか?)困っている人の困り方にさえ、同情心を持たないことが健全だぐらいに冷たい人も多いので、そもそも同じ人間だ言うことに気がついていないのであって、腹が減れば情けなく、際どい冗談に笑い転げ、恋すれどいたく臆病だったり、金に汚かったり、同じ要素の方が圧倒的に多いことを知らない。実感できない。実感できないのは、直接接する機会が少ないから仕方がないのだが。


ああ、それから、一部の西洋の国だけを外国の学ぶべき代表として、ほかと差別するのがまだまだ常識になっているというのも、ほんとうに愚かで情けない現象だ。もういい加減、2030年ぐらいまでには変わるだろうか。庵野監督が、押井作品に勝っている要素は、『人類』レベルに立とうとしていることが分かりやすいことと、一生懸命作りましたという温度の高さだろう。日本国は、人類のクラス委員長候補として、公平公正なシステムを指向し、主張する役割を果たすのが生き延びる道ではないか。わしはそう思うが、どうか。



たまたま、自分が興味のある映画を続けてみて、感じた落差を記すだけだ。刺激的という点では、人気はなくても、私にはおなじくらいに刺激的であり、また同じくらいお約束の「世界」である。私が気にかけてきた80年代からずっと、あるクラスメートの指摘によって気づかされてからこの方、世界はこんな不公正な貿易を続けている。もっと以前からそうだったようでもある。映画では、史上最高にアフリカ大陸全体が経済的苦境にあるという。それは知らなかった。


スカイクロラまで、来たのだから、あと一歩、「おいしいコーヒーの真実」のような映画に踏み出せば、リアルだぜ、と私はそのように感じた。(作り手のことではなく、見る方々が、両方見るようになればな、ということが言いたいのです)観客動員数の違いは大きいから、この一歩はまだまだグランドキャニオン級に大きいのかもしれないが。股が裂けるどころじゃないね。
社会科の勉強になるドキュメンタリー映画と青年の生をいかに生きるのかという切実な芸術的な映画。このふたつが共存するのが現在なのかもしれない。


こちらの若者は、エチオピアの農場で、腰を痛めるほど毎日苦労してコーヒーを作る父の後はつがないと言う。コーヒー豆の値段が安すぎ、ますます下がっている。ニューヨーク先物コーヒー市場では、大手企業5社がほとんどの取引を行い、安く買いたたき、生活が出来る程度にすら生産者には収入が入らない。飢餓が村に広まる。もっとも中心的に取り上げられた人物は、協同組合のリーダーで、ニューヨーク市場以外の買い手を探し、各地域の生産者への収入を増やすような運動をしている人だ。生産者から諸費者まで6回の取引を経る過程を減らすことなど、生産者本位の様々な改革に取組んでいる。ある村では、増収を使って学校を建てようと言う話し合いが行われた。消費先のある企業はフェアトレードを標榜して、ニューヨークを介在しない買い取りを申し込んでくる。WTOでは、議論の仕組みが民主的ではないとNPOが問題を指摘する。


2008年の現時点では、WTOはすでに実質的に崩壊している。この映画はまだ、批判すべき余命を保っていたころに作られた映画だ。そういう意味ではちょっと古いようだ。


新聞や国内のメディアではとりあげない『世界』のことは映画で得ることができる。特にミニシアター系の映画をしばらく見ていれば、芸術的感動のおまけとして、世界の人々の多様なあれやこれやが分かってくる。私も80年代はそういう意識で、ミニシアター系の映画をたくさん見ていたのだが、90年代田舎に引っ込んでから見なくなり、00年代大阪に戻ってからも、見る本数はがた落ちだった。そろそろミニシアターに復帰せねば、と思う今日この頃だ。


大人は若者を利用するためにいろいろな仕掛けを作る。キルドレは、次第に映画の進行ととともに惨いほどそういった存在であることが明らかになって行く。そういう映画を作った押井監督も、生きるためにそうせざるを得ない『大人』であるし、このコラムを書いた私も、大人になる以前から、そんな「大人」の思惑には敏感であった。できるだけ乗らないように気をつけて来たとはいえ、今はもう「大人」であって、人を利用するのは絶対に嫌だし、利用される(良い意味で言うと役に立つ)のも苦手なのだが、若い人の助けがなければなにごともできないし、世間的にも異議がないという自覚がある。自分の仕事をするうえで、実際にそうなのだ。


それでいいのだ。と思う。問題は関係の結び方だ。だまして、いいとこどり出来るシステムががっちりできているから、それに乗っかって,人の苦しみは見て見ぬ振りをするのか、そうではない、別の方法を探るのか、だ。


私が日本語学校を辞めた2番目の理由がこれだった。教務主任として、非常勤教師の時給の安さに乗っかって、授業の質を高めることやら、時間外で無給の業務を押し付けることなどやりたくなかったからである。それが学生のためになるのならまだしも、「授業料さえ出せばよい」よ言わんばかりの入学選考によって、外国語学習に耐え得ない学習能力とやる気さえない学生を入学させ、学生の人生さえ狂わせててしまっている。これが1番目の理由だった。


そんなことをやっている日本語学校は、存在そのものが不道徳と言わざるを得ない。経営者は見た目の体裁さえ整えれば金儲けのために日本語学校をやってますというのが、見え見えである。(全部がそうではないが、私は転職を重ねてそんな奴らに出会ってきた)他人の金儲けの道具になって、自分の分け前が微々たるものであるのに、我慢して続けることはない。日本語教育振興協会(というのがこの業界の許認可団体なんだが)も何をやっているんだか、審査の基準も方法も甘く、まともでない日本語学校以外をいくつもいくつも存続させている。結果的に不道徳の片割れ、片棒担ぎに堕している。


まさに、人を食い物にして、後に持続的社会的発展にはつながらないその場限りの商売だ。騙される人、お客と低賃金で働かされて、経営者だけが肥え太るのに奉仕させられる人々が居るかぎりは続く。エチオピアの生産者は分かっていながらこの関係から抜け出せない。よりよい生存のためには現状を切り開く道しか残っていない、ように見える。


「生きさせろ」という書物があるように、今の状況が続くことは永遠の生ではなく、強いられた過酷さに耐える生ではないか。将来の予想はぎりぎりの生活をまだ続けているか、あきらめて破綻するか、このふたつしか見えないような。むしろ、ぼくらの学生時代の気分においてこそ、今の状況が永遠に続くように見え、アンニュイで退屈なキルドレ的心情を生きていた。我々の世代は仕事もそん気分の延長でやれていた良い時期があったが、今はそんな気分ではもういられない。



私は一介の個人事業主として、フェアトレードだって、やろうと思えばできる潜在的可能性は、きわめて小さいけれどもある。
(あるとは言っているが、実際にやるとはまだ言ってない)