ジュンク堂難波様内巡礼の記録、あるいは読みたい本がいっぱい!


あれはいつのことだったか。思い出そうとすれば思い出せる。使える金はないが、買いたい本は一杯ある、その中で・・・。


同じことを繰り返しても、惰性でやるのと、なにかを得ようと注意深く意識的にやるのとではまったく違う、そういう結果になった。


某大型書店の三階へ。音楽のコーナー・・・特に目星い新刊はない。
日本語教育コーナーから英語学コーナー。日英対照シリーズ「形式意味論」ラムダ演算のあらましを読む。トーイックのコーナーに
外国人女性が携帯でずっと話していた。モンタギュー文法、認知意味論などのあらましをざっとつかむ。学参コーナーはきょうはしんどいのでとばして、漫画コーナーでぱにぽにを探したがみつからなかった。かえってよかった。あったら、一緒に並んでいるはずの新感覚癒し系魔法少女ベホイミとまゆまらなどは巻数が少ないので買ってしまいそうだった。


2階へ降りた。内田亮子先生の「人類はいかに進化したか」言語と定住の項目を見た。ノンバーバルコミュニケーションは、バーバルコミュニケーションと平行している、そうして初めてコミュニケーションが成り立つのでは?という大いなる仮説を得た。いそいで、空いているイスで、着想をメモった。まだ定住の項目を見ていないので、もう一回見たら、定住を始めてから、栄養不足が生じていると言う話と、母親の子育て、あるいは老人や病人のケアの負担が集住によって低減する利点の指摘があった。ただし、「人間らしさの進化」というようなタイトルの本では。定住は食糧不足のあとの問題解決のための発明と記述されていた。うーっむ。それも食糧連鎖の頂点に立って、捕食できる動物が減ったせいであるらしい。議論があって定説が定まらない例であろうか。


哲学、言語学のコーナーへ移動。
生成文法の新成果、岩波の分厚くて高い本。よ、読まれへん、これ。中身がムズイ。中公の哲学の歴史シリーズ11は、図書館で借りて読んだのだが、また繙いて、何をするかと言えば、目の前に並ぶ、クワイン以降の、デビッドソン、クリプキ、プトナムら、英米圏の哲学の立場を再確認しながら見た。名前さえ覚えていないが、もっと最近で重要な人も居た。ウチの書棚にある古書店で買った「現代の論理的意味論」「言語哲学大全3巻」で、様相論理はオッケー、さらに4巻で、日本語のデビッドソン的アプローチもオッケー。これで、形式意味論とのつながりができた。


成果のある巡礼の旅であった。


そのほか、もう少し前の同じ本屋さんの違うお店での巡礼の旅で、「生物哲学の基礎」という本を見つけた。これは高い。1万3千円からする。
欲しい。著者マリオブンゲは「因果論」の人で、まだ読んでないが昔々入手してウチにある本を書いた人だ。



恐るべきは、エマニュエルトッド!  私は、この人の理論は、一時のフロイド、あるいはマルクス、あるいはダーウインのような人類の世界史の今後に影響を与えるかもしれないという予感さえ持ってしまった。それも、善悪両面で重大な影響を及ぼしかねない。取り扱い注意でありかつ、避けて通れない理論。むしろ、かつての影響力を持った偉大な理論が人類の成熟度を試す試金石になったように、支持と不支持の対立が深刻にならねばよいがと心配するほどの。しかし、この著者の他の本は社会学のコーナーだが、「世界の多様性」だけ世界史のコーナー。どっちにしても、オリジナルの人類学に置いてないのは、あれか、SFがSFと銘打ったのでは売れないので、ミステリーのジャンルに入りたがるのと同じ現象か。答えだけいうと、文系理系に泣き別れの弊害がここにもあるだかな。


梅棹先生の「知的生産の技術」川喜田先生の「発想法」「続発想法」上山春平先生「照葉樹林文化」佐々木高明先生「照葉樹林文化とはなにか」
必読書なのにうちにないなあと思い、中公新書の棚から抜き出して、レジに向かおうとする私。千円以下の価格に完全に我を忘れていた。エスカレーターで1階レジへ向かう前に停止信号が脳内で出たから良かった。しかし、不審な動きで、嫌疑をかけられかねない。棚に戻した。ときどき、あらぬところにあらぬ本が置いてるのをみて不愉快になることがあるが、あれも同病者の必死の踏みとどまりによるのかもしれぬ。


一階で小松左京監修の「サイエンスイマジネーション」が見当たらず、ああ、もう返品されたかと嘆きかけたその時、手の届かぬ棚の上の方に安置してあったので安心した。小松左京マガジンもそっちに行っていた。


今日の朝刊に、脳の思考内容を覗く技術がかなりの成功を収めたニュースが載っていた。「操作される脳」なんて本が先日の新刊案内にもあって、米国軍事技術内でも脳研究もシャレにならない段階に来ているようで、この本も必読っぽいが、必読本だけ読んでも一生中には読み切れないことも必然なので、直観とか勘をますます研ぎすまさねばならない時代になってきたようである。


内田先生の「昭和のエートス」は、<自分>のふだん感じていることに近いことがうまいこと理路整然と表現されていそうで読みたいし、水村美苗先生の「日本語滅亡」は、いったいどんな力技で一億2千万からの人口を擁する国語が滅びるのか、シリアスな文学から転向してのSF第一作、腕前を拝見したいものだ。