今年が動き出した


先週土曜日、ブラジル人労働者向けに、組合の無料レッスンを始めた。日本語教育歴20年を越える私だが、8年日本で暮らしたIさんは、通常、自分のことを「おれ」と言うし、敬語も使えなくはないが普段の話は荒っぽい。いっしゅん、だじろいだ。初めての経験にもすぐ慣れる私ではあるが、現場でサバイブして来た人と、これまで教えて来た東西の人々とは、教えるべき日本語が違う。これから、これまで経験のない、新しいタイプの日本語教育の経験を積むことになる。むしろ、生徒さんであるにもかかわらず、敬語使わない気楽さを楽しんでいる。といっても、全く使わないことも、おれには無理なんだが・・・


今年早々の新しい経験だ。その経験による発見やら何やらは、これから起こることだろう。


語学学校の外国人英語教師がマジョリティーであるジェネラルユニオンだが、去年の9月以降は続々とブラジル人が組合に加盟しているそうだ。
いきなりブランチが出来、さらに増加中。Iさんは、そのきっかけになり、大変いそがしいそうだ。
日本語学校関係者の方で労働問題でお悩みの方は、お気軽にご相談ください。有名語学学校にはめちゃつおい組合ですからねっ)


一人称をおれとするのは、男のおれにとっては快感原則にもっとも近い日本語の人称だ。
たまたま、大江健三郎万延元年のフットボール』を読み終えたAさんが、ラスト近くでナレーターの人称がぼくからおれになっている指摘があった。試みに、
わたくし、わたし、おれ、ぼくを社会的適応度の高い自我、超自我、リビドーに接している自我、幼児的依存的自我のような振り分けをして、説明してみた。おっさんの使うわしもあるのだが、わしも、小3のころ、よくわしを使って、自我の肥大感覚を楽しんでいたように思う。


別の生徒さんであるPさんから、一人称にまつわる別の趣の話を聞いた。
ある日本人の私的な語学学校の英語教師。大学で英語専攻。Pさんのお友達の日本人がそのクラスの生徒で、件の講師にみんなが『実用的な』英語を教えてほしいとリクエストしたところ、怒りだして、なにを思ったか、一人称を英語でどういうか知っているのかと聞いて答えられなかったのに対し、私は知っているのだ、というのを理由に、自分の英語力が高くて、授業も妥当なのだという証拠にした、そうな。
知恵のあるバカも世の中には一定数は存在するものである。


人を笑って安心するより、自分もどっかでこういうコトをやってやしないか反省しなければ。そこまでひどくないとは思うが。


新年になり、オフィスワーカーにもなった。今日はその初日だった。自分の仮事務所は、このオフィスワークをきちんと勤めるのが条件なので、
時給はどうのこうの文句を言う筋合いも、内心でもそんな気はない。
阪急夙川という私にとっては高級感の漂う駅に週四回通うのは、むずがゆい感じがするものだ。乗客がみんな自分よりお金持ちに見え、帰りの南海高野線の乗客がビンボー臭く見えてしまうのは、単なる気のせいでしかないはずである。


たかが大阪の南部と北部の違いにびびっていてはいけない。私の教えた外国の方々は、ほんとうに国際的レベルで社会階層がとてつもなく高〜〜〜〜〜〜〜い方がたの子弟様、息女様たちもあったし、今でも結構なキャリアや人脈のおありの生徒さんがたに「先生」などと言ってもらっておるのである。金とか地位とかに目がくらむおれではないんである。


現生の瑣末時には左右されない心の豊かさ。
これが大事である。


てことで、今日はみなさんに最後にミトラ教の話をしてしんぜよう。といってもよう知らない。古代ローマキリスト教の広まる前の有力宗教であり、太陽神である。シンボルは蛇が巻き付いた獅子。


これは「意識の起源史」エリッヒノイマン著のパート2を読んでいたら出て来て、なぜかたいへん、興味深いと思ったもの。キリスト教のライバル宗教だったということに私は惹かれているようだ。


この本は、パート1ではオリエントやギリシャなど広く世界の神話を心の発達の観点から扱っている。ウロボロス(混沌とした存在)から、太母(産みかつ破壊する)、天地を分ける原両親、そして英雄に至って、<意識>が存在から分離し、中心かしいていく段階を解読したのだった。
パート2では、パート1の成果を、人の心の発達から、もう一度説明し直すもの。
男性性にも「下なる」男性性と「上なる」男性性があって、『下なる」はもろに下ねたなので、上品なおれのこのブログでは扱わないが、「上なる」の方は身体器官では、目と頭に関連し、地上的世俗的な「下」からは離れるものである。


このところにミトラ教も一例として出ていた訳である。


ま、ちょっとだけ、表面的に硬化した道徳観に凝り固まっているような人だと眉をしかめそうなことを書くが、この段階の手前、「下なる男性性」が無意識から別れ出て来るところでは、ナルシシズム、美少年、性的倒錯、同性愛、狂乱や乱交、こういったことが、個人に現れる場合は病的にだが、芸術など、創造的な前向きの活動の原動力にもなり、必ずしも負とばかりはとらえられないとのことで、いまどきの一部の深夜アニメも弁護出来ないことはないのかもしれない。


しかし、おれはいまどきのアニメを弁護するためにこれを読んでいるのではなくて、自分の心の成長を測るよすがにしようと思って読み始めたのだ。なんせ私は、生の人間関係で心の成長を十全に年相応に成し遂げ得たとは自分自身でも思えない49歳と一ヶ月なもんで、こういうものを読んで己の成長度合いを測る必要があると痛感しているのだ。


知的自尊心が、その辺のスピリチュアルに走らせないというスノビズムが入っておりますが・・・・


んで、ここでは書かない個人の未熟なモメントにいろいろと思い当たった。今は走り読みして、この本自体がいろいろな古代の神話と宗教と先達の研究を博搜しており、随分賢くなったような気になれる1冊だ。もう、年末にもうい一度読み直そうと決めている。読了していないんだが。それほどに、一回読んだだけでは、頭だけで読む本ではなく、知的に理解しつつ、深層心理にもじわじわ聞かせたい、そんな一面もある。


そういえば、夢見がひさしぶりに活発化しているですよ。 
枕元のお供には筒井康隆「虚航船団」


「女性の深層」という本も同じ著者が出していて、それは「意識の起源史」の続編的な研究のようなので、読む予定。女性の一人称をどう腑分けするのかは、それを読んでからにしたいと思ってオルです。


生物学的に、男性は女性の出来損ないであるという福岡伸一先生のお話をマル激トーウオンデマンドで見たのですが、そして、文化なんて男がこさえたフィクションあると言うバイオマテリアリズムっぽいところからの発言には共感以外の何者もでないおれであるのだが、その虚構である文化としょせんは生物であるヒトの狭間に揺れ動く意識、知性、無意識の綾なす葛藤に、私は今目を向けているところな訳です。


それにしても、大手食品メーカーのやらずぶったくりには人類を地獄へ引きずり込む破滅的なものがあるのではないだろうか。『食糧テロリズム』ヴァンダナシヴァ著を読んでの感想を付け加えておきます。これは市民の義務だと思って参加しているATTAC関西例会で今年読み始めた。
私は海担当。20代に読んだ鶴見良行さんや、買ったものの読んでいない『バナナと日本人』や「えびと日本人」などとつなげて読みたい。