歯切れの悪い「〜のかなあ」の蔓延


前にも、ちらっと書いたけど、数年前から、気になっている話し方がある。


例:
(話している論者が提唱する「学校理事会」に)子供も入ってもいいのかなって、子供の権利条約の精神からいくと・・・思ってますけど。


拾うてきたのは、ビデオニュースドットコム(http://www.videonews.com/)で、民主党ネクス文部科学省大臣のインタビュー。
せっかくなかなか素晴らしいのではないかと思われる教育制度の改善案を提示しているのだが、日本語教師の私は、本筋とは違う所でひっかかる。


意見を述べる際の「〜のかな」このようなもの言いを私はたいへん歯切れが悪いものと感じる。この番組のコメンテーターの社会学者のセンセーも、とてもためになるいろんなことを教えてくれて、歯切れよく、分かっていない人を「バカ」とかおっしゃるが、ときどき、この「〜のかなあ」を使う。「〜んじゃないのかあ」ですらないときはやはりいらっとする。


私の日本語の文型リストでは「〜のかなあ」は疑心暗鬼、不確定な将来の事象を述べるのに使うべきもので、不安な心理の表出を伴う類いのものだ。「意見を人様に公的に申し上げる」場合には相応しくない。


これまでも、これをテレビで聞かされるたんびに、私はいらいら、いらいらさせられてきた。


一年前ごろだったか、いちばん、いらっときたのは、ある事件の担当責任者が、自分の犯した過失を説明する場面で、「事実文+のかなあと思います。皆様にご迷惑をかけて申し訳ないと思っています」というように述べた。これでは、謝罪する前提が曖昧模糊とした霧の中の出来事のようで、とても事情を汲んで許してやりたいとは思えなかった。また繰り返すぜ、この野郎はよお、と思ってしまった。


頭の一部が確実に働いていないのだろう。言語野、論理と記憶回路をつなげるあたりが、おねんねしたまんまじゃないのか。


それ以前から、異論もあるだろう意見を述べる人が、「〜のかなあ」を言う。気になるので、意見を言う人の文末には毎度注意する癖がついてしまった。しかし「意見文+のじゃないでしょうか」を言う人にはとんとお目にかからなくなった。


せっかく中味の立派なことを言っても、言葉遣いに問題があれば気が抜ける。


○○党であろうが、××党であろうが、学者であろうが、通りがかりの社会人男女であろうが、社会的位相のどこであろうが、みい〜〜〜んな、
「〜のかなあ』


いったいどうしてしまったのかなあ。


柔らかいものいいが好まれる風潮のせいなのかもしれない。


意見が違う人にも、気分的に『内輪』の感覚で聞いてほしいと言う願望が言わせているのかもしれない。


しかし、今どき、これほどあれやこれやで、国民が分断しシブゴレツしてしまい、縦横無尽に亀裂が走りまくっている日本人同士で無自覚な「なれ合い」語法を用いていてはまとまな議論なんざあ、できまいて。なんやと・・・?議論なんかしたくないやと。それでも、日々話し合いはせねあかんのんとちゃうんけ。話し合い好きやろ。時間ばっかりかかって、守りもせんルール決めるような会議ばっかりやってるくせしやがって。おれは、自慢やなくて、情けないこととして、ここで言うけど、おれが自分で司会進行せえへんくて、気持ちよう会議が進んだことなんてほんまに少のうて、そのことでも、相当いらいらしてるんよ、ほんま。


意見を言わねばならないのは、『違い』があるからであって、そいつを調整する為に、「自分はこう思う」「あなたはどうか」と問う、「〜のではないか」こそ有効だろう。もちもちもちもちべたべたいつまでもできるはずはない、と思うが。


もはや利害は対立してしまっているのである。違いや対立があることを認めた上で、理性的、合理的な解決をはからんかい。
「世界はバラバラ、人類は皆他人」という状況なんである。これを共存の方向へ持っていけるように個々のプレイヤーが賢く振る舞うべく義務づけられているようなサバイバルのための強制的善人化必須状況なのではないか。興奮して、訳の分からんことを口走っているが。


コト上げを好まない国民性が、現実の苛酷さに恐れをなして退行し、断言を極力避けようとしているのかもしれない。しかし、論理的に話が出来る訓練は、いまや必須だと思うが。


わたしども日本人の「察する」美風を悪いとは決して言わない。ただTPOに合わせて、スイッチングできるようにしとかんといかんやろうということを言いたいだけだ。「のかなあ」の禁止を言うつもりも無論ない。「のかなあ」も便利なときはいろいろある。しかし、言語状況を見て言うならば、情緒的文脈に頼り過ぎだろう。日本語は滅びるはずはないが、文学的表現だけでなく、筋道の通った論理的展開は一部の好事家のものになり下がってしまうのか。嗚呼、日本の近代化百数十年・・・・日本に「論理」は根付かないまま終わるのか。近代は永々にやってこないのか。


マスコミ!特に、テレビのニュースっ!!(ブログ書きのお約束で、書かずもがなのことだが、一応書いておく)ユーチューブで見た討論番組で、ピーターバラカンさんが、ニュースにBGMなんて、考えられませんって言ってたぞ。ちょい前のアニメのBGMばっかり拝借してしょうもない味付けしやがって。


気分的ななれ合いに留まろうとしている限りは、問題の所在さえつかめない。


「しゃべれ、しゃべれ、それだけ取り柄さ」と「地下鉄のザジ」(レーモンクノー)のオウムも言っている。
ただし、はっきり言え!そのほうが、まだ問題がこじれないはずだ。言語化する心理的抵抗を耐える方が、言語化せず、なりゆきに解決を任せる方がこじれる。あとで感情だの不信だの暴力だのがのさばりだすことになるのかなあ。


もう遅いのかなあ。


「のじゃないか」を切に望む次第。


以上