共同主観的な日本語


うんが。
いや、・・・「が」!


「が」を使う文について、いろいろ考えたり、書いたりしている。


野田尚史先生の「はとが」を3回目読んだり・・・。


さて、現象文には「が」を使う。


あ、犬がいる。眼前の現象。  現象と言えば、私にはこれまで、現象学だったのだが、どういう風の吹き回しか、こいつは、あれだぜ、ハッチン・・・ちがうんだ。純粋自我では説明できないんだ、てことに感づいた。ほら、見えるだろ、ハッチンも。あそこに変な犬が居るじゃないか。こういうときに、犬が居るって、「が」を使っていうわけさ、なあ、日本語では、さ。そんときはよ、そばに居るダチにも犬が居るってことは見え見えじゃん。


電話だったら、どう言う?犬はいますか?ああ、うん。犬は居るよ。って言うじゃんよ。「は」を使ってんのは、頭で考えて言う時だ。判断文だぜ。こっちはよ。


いっしょに同じとこに居て、同じものが見えるときだ。それか、あ、富士山が見える。ってときも、サイテー、おれが見てることは相手も分るときじゃん。


これって、共同主観性じゃん?


それで、廣松のおっさんの「世界の共同主観的存在構造」に手を出したわけさ。読んで行ったら、もうばりばり全開でびっくりした。


主観客観の二項関係は乗り越えるんだぜ。対象ー意識内容ー認識主体の3項図式も破棄するんだぜ。それで、対象認識の二肢性と認識
主体の二肢性なんんてこと言い出して、合わせて四肢性だと。


純粋知覚なんてのは、近代的主観客観図式にとらわれた哲学者どものフィクションだとよ。知覚には、必ず、意味付与されたなにかあるもの
etwas Mehr?がつきまとう。物体的対象にも記号的な意味作用があるってたっけ?


それから主体には、なんだっけ?


他人が、おれと同じ主観を備えた主体だってえ事は、近代哲学では証明無理だとよ。ハハハ、おめえ、いくらふかしったってな。おれにとっちゃいないも同然なんだ。


いや、ちがうんだ。近代哲学だったら、そうなるってえ、話だよ、話。


ミチコトーク、疲れる・・・。


思い返せば幾星霜。「存在と意味」をはじめとする廣松先生のご著書もしょぞうしていたぼくだったんだけど、引っ越しで本の減量するときに
しょぶんしちゃったんだよね〜。
そのころは、認識の四肢構造やら対象所識やら、よう分らんかった。今、かろうじて、4色ボールペン法(斎藤孝先生ご提案)によって、どうにか読める。



しかし、こういうマルクス主義哲学を背景にしたら、いじめられるんだろうかなあ。無理解に悩まされたりつまはじきにあったりすんだろうかなあ。保守からも、革新からも相手にされないのかなあ。一部出版社が頼みの綱だけど・・・う〜ん。ま、それは今から心配しても仕方がない。


仕方がないには、なせばなる。長いものに撒かれろには、一寸の虫にも五分の魂。水に流すには、石の上にも3年だ。


今、かなりクライマックスに近づいて、他者の自我の認識についての近代の錯誤のところに来ている。蛇が出て来る。経験的自我の水準では、
友達が縄を蛇と間違ってびくってしたのも、おれがなわて知ってて、友達が間違ったことが分ることも、また分ったことも分ってることも、
お互い分ってる。経験的意識を超えて、反省的超越自我の水準になると、あれ〜、おれは総思ただけで、本当は違うかも〜ってなる。と。


そこまで、読んだ。ここからどうなるか楽しみでしょうがない。読み終わったら、次は「事的世界観の前哨」その次は、放り出しちまった「贈与論」モースに戻る。そういえば、筑摩文庫の93ページに、クラという交換の儀礼の始まりの話があったんだが、これが廣松のおっさんの「協働」の説明に符合していてた。コミュニケーションの挫折について。


恐慌もこれで乗り切れるか? 乗り切れるのか?