49歳6ヶ月男子がエヴァ破の体験談


90年代半ばにレンタルビデオ店の店頭にならんだとき、第1回だけ借りてみた。
使徒」の不気味さは魅力的だったが、父と子の葛藤のドラマのパートが、
安易に見え、鼻についた感があり、続けて借りようとは思わなかった。
借りてみたきっかけは、新聞の文化欄、劇場版の紹介だった。


その頃は、もののけ姫は映画館で見た。サンディーやディックリーなどをよく聞いていた。


08年正月、友達にボックスセットを借りて全部見た。地球がえらいことになって
完結したところまで見てしまった。確かに「すごかった」。
その凄さは言葉にならない「何か」だった。
人類全体の「破壊」と「死」を<絵>で見せてくれるとは。
そこまで発展するという予想も無く見ていたので、衝撃はかなりのものだった。


しかし、精神的な危険もかなり感じた。
この場合、自分が問題なのか、作品が問題なのか、その区別すら難しかった。


しばらくして、ニコニコ動画竹熊健太郎東浩紀の対談を聞いたり、
沖縄戦の映画を監督が大変な回数見たことはこれで知ったかな、
フィリップKディックの翻訳者として認知していた方のエヴァについての
宗教思想的かつ秘教的シンボリズムなどを解説した本なども目を通したりした。


その夏に「序」が公開になったことは知らず、dvdが出てから見た。
やっぱり私は、「使徒」の禍々しさに関しては、この作品のファンであると
再確認した。ラミエルの成長進化は本当にカッコイイと思った。
新劇場版では、使途に固有名詞は使わないそうだが、そこまでつき合える
情報の整理は出来ない。


旧版全体の私の感想に戻るけど、
シンジの心の葛藤なんて描写は、安易なヒーローものにしないための
苦肉の策のようにしか見えない。


視聴者の対象年齢が中学生中心だからという理由以外にエヴァパイロットが
中学生になる理由はない。
クラークの「幼年期の終わり」では、


(以下2行ネタばれあり)


人類の限界を超えた能力を子供たちだけが
身につけて、地球から旅立っていったが・・・。


人類進化テーマのSF作品としては、どう評価してよいか。映像で見せ
られた破壊的ビジョンは、<なにが言いたいのかよく分からない点を除けば>
映像そのものとして素晴らしい魅力があったと思う。


そういうまとめで、「破」がでるまでは落ち着いていた。


今年の1年の私の隠しテーマは、「前提」を問う、である。
去年は、右脳と左脳の連携を、だった。


「前提」を問うためには「前提」に触れなければならない。
共同主観的に事物を共有する体験をもたねばならないので、
去年の夏以上にミーハーになっている。(ここ、飛躍あるね)


1Q84」は、書店に並んだ翌日に買い込んで、すぐさま読み切った。
大衆というか群衆が飛びつくものには近づかない体質の私なのだが。


してやられた。謎は謎のままほったらかし。いつものハルキチだ。
それでも、おもしろかったので、今回は許そう。続編があるかもしれないし。


エヴァンゲリオンも同じ構図だ。意味ありげな謎の羅列、回収されない伏線。
自分がハルキチだけをゆるせない理由は、なんだろう。
シリアスノベルで、「人間の人生なんて解けない謎だらけで終わるのだよ」と
正面から描くのであれば、よしとするだろうが、


シリアスノベルなのに、エンターテインメントの手法を借り
読みやすさと雰囲気で釣っておいて、「文学的」雰囲気充填、
作品世界のリアリティーは、底を抜いた「現実世界の改変」版を提示。
作家か、職人か、と言えば、ぎりぎり職人のほうに入る。
「作家」のほうに登録しておいて、職人としてしか義務を果たしてないように見える。
「1Q84」の読ませる技術はすごかった、とは認める。最近あまり小説を読まない私だが。


筒井康隆も似ているが、こちらは職人として登録しておいて、ときどき作家性を
おおいに発揮する。


実は金儲けが目当てのNPOでよく見ると社会貢献できていないのと、
利潤追求が目的の私企業が高度な技術を進化させて、結果、公の役に立っているのと、
どっちが社会的に価値があるか。


庵野監督は、どちらとも違うように見える。
庵野監督は、職人芸を極めていって技術のレベルがあがる過程で、そのつもりもないのに
作家性を呼び寄せてしまったのではないかと思う。
アニメ分野の文学性はひどく低レベルだったので、思春期の葛藤を持ちこむとえらく
高尚なものに見え、かつアクチュアルに青少年に効きメがあった。
アニメ分野のSF性はまだまだ発展途上だったので、宗教思想的要素をもちこんだら、
人類をとんでもないところに追い込むまでに話が深くなってしまった。
(先行する別作者のイデオンという作品も壮大な悲劇的結末だそうだが)
アニメ分野の特撮的演出の援用は、さほど試みられていなかったので、やってみたら、
視聴者の熱狂に思った以上の効果を発揮した。これを一番に上げるべきかな?
一言で言うと、ネタが化けた!


こういったことの相乗効果が、化け物的人気作となったのだろう。
そのほか、話題作りにつながるテレビから劇場への流れが拍車をかけて、伝説にまでなったの
かもしれない。内容と観客への提示方法の相乗効果もあったようだ。


作品として他の追随を許さぬクオリティ
さらに+購買層への提示方法がにくいほどうまい。
ハルキチ、新潮社、電通のチームも、
庵野、大月、カラー、クロックワークスのチームも、
うまい。秘密主義なども今回は似ていた。


1Q84に、ねこにマタタビのように食いついた。
数ページ立ち読みして、これは買わねば、と思った。
多くの人が動く、その先頭に立ちたいという古代原始社会の競争に駆られる
ような心の底からわき上がる、ああ、かくも逆らいがたい欲求。


それがさらに増強されたのが、今回のエヴァ「破」だった。公開日が数日前辺りで、
おれはそわそわし始めた。
友人の「おまえ、絶対劇場見に行くやろ。おれはdvd出るまで待つけどな・・・」という
発言。某巨大掲示板エヴァ関連の書き込みを見て、さらにそわそわ。
生まれて初めて、「映画の予約」をした。


この祭りには乗り遅れたくないという意識が強く作用した。止められなかった。
コワイネ、ファシズム的動員。逆らえない自分。


そして、見た。


オモロカッタ。このオモロさは、ちょっと筆舌に尽くしがたい。「序」どころではなかった。
崖ぽよにも言えることだが、ストーリーや設定は、「絵」を監督が好きなように動かす口実に
過ぎなくなったかのうようだ。


2週間ほど熱に浮かされているような状態が続いた。


いろいろな考察が浮かんだ。無理矢理招集されて、死ぬとしか思えない
突撃を強いられる少年<シンジ>は、第2次大戦中の特攻のメタファーではないのか、とか。
ついでに書くと、「少年よ、神話になれ」という歌は神国日本のイデオロギーキリスト教
偽装しているだけではないのか、なんて。


ちなみに、私の父親は鹿児島にあった特攻機を送り出した基地の整備兵だった。
そのなまなましい裏話をきくと、うすっぺらい美談ですましてはいけないとつくづく思う。


さて、<シンジ>に引き換え、<使途>は、自然生態系の破壊を自覚しながらも止めることができずに
破滅に向かうリアルな人類にとって、罰するものがいないという問題を一挙に
解決しにやってきてくれるありがたい存在であろうか。
私にはそうとしか思えない。
この形象がなにより素晴らしい。
もっと活躍する設定になぜしないのか、とさえ思う。


使徒が勝って、人類が関与できない地球の未来こそ
是非見たい結末。無理? 


劇場版「破」状態が緩和しかけているちょうどそのとき、一昨日のこと、
地下鉄で隣に座ったにいちゃんが、「洗脳」に関する本を読んでいた。
個人的にタイムリーな気がした。昨日ちょっと本屋で読んでみた。
洗脳というのものの仕組みの説明を初めて知った。


普通の意識状態ではないとき、それを変性意識という。
リアルな物理的な外界とは違う仮想的世界をよりリアルに意識しているような状態。


このときに、洗脳を行なう人は、アンカーと筆者が呼ぶ、「指令」を
埋め込み、指令が発動するきっけとなる「トリガー」と関連づける、のだそうだ。
この筆者は、なんかすごい。学問的経歴が凄いのと、出している本のあまりの
インチキ臭いギャップがまたすごい。


自分で自己暗示にかけてしまうこともあるそうなので、「破」あるいはエヴァについて
どこでそんなものを埋め込んでしまったのか、探してみようと思うのである。


しかし、「洗脳」という言葉に「洗脳」されているこの感覚、これはなんのなのだろうね。
むいてもむいても、自分の意識じゃない。
らっきょうの皮感覚が、かなりビビッドにリアルなんだが。


まさかとは思うんだが、脱洗脳というコンセプトを洗脳の技術を使ってばらまくことも
可能なようだが。


身体が内存在している自然的物理的空間、そのうえに社会文化的に形成された皮膜のようなもの、
いわゆる第一次的な現実に、実感が持てないというヒトはどれくらいいるのだろうか。
自分も中学高校ぐらいはそのような違和感から、ますます、文学やそのほかのフィクションに
のめりこんでいったような気がするのだが。


次回は、リアリティについて、書いてみましょうか。


(補足:そういえば、士郎正宗攻殻機動隊」というインターネット情報網になった女の物語が存在した。小松左京の「地球になった男」のパロディーを「伊勢物語」風のスタイルで書いてみようかしらんと考えていたとき、ふと気がついた。「地球になった男」の書き出しはカフカだろう)