時刻は午後11時を回りました

身体の備える知覚能力(1)と記憶(2)、運動能力を行使して動いた結果得られた世界図式(3)とその書き換え。これらからなる、絶えず更新されながらもヒトの意識において存在するある一定の構造がある。これを<生きられる世界>とその<世界図式>としよう。<生きられる世界>は身体の無意識的次元や恒常性維持機能を基盤とする限りでの、今此所で(現に)意識に与えられる世界としておく。ただし時間的連続性を基盤としてそのうえに現れる。(お、おお。時間は個人的主観と自然が共有しているなにか、かもしれない)<世界図式>は、特に記憶の煮こごりのようにできあがっている<世界観>の根拠となるものの此所での呼び方である。<世界図式>は<生きられる世界>とは違って比較的安定しており、<生きられる世界>におけるヒトの運動にとっての前提となるのが常態である。<生きられる世界>と<世界図式>は本来切り離すことは
不可能であろう。

(注:<生きられる世界>と<世界図式>の関係はラングとパロールの関係に似ている。または、マントル層を形成するケイ素が短期的には個体として振る舞い、長期的には流動的であることにも似ている)


私の死後も世界は存在しつつけるであろうが、私が直接知覚できないという意味では、<世界>は(私にとっては)おおいに違うものとなる。ただし、私が知っている人たちや関係者が私と共有した<世界>に生き続けるという意味では<世界>はさほど変わらないだろうとしか推測できないとも言える。直接確かめる機会だけは永遠に失われはする。<自由意志>は今ここでは考えていない。私の哲学的アイデアは、<個人的主観>と<共同的知覚世界の個人に与える影響>をdualに存在し、スイッチング可能なものとして考えてみるということである。


間主観的なモメントをも<生きられる世界>の構成要素と考え、さらに根底的な<世界図式>の構成要素ともするならば、ほかの人と共有している<共同的知覚世界>(4)と<言語>(5)も加えなければならない。


言語には、<現に知覚している世界の再分節化機能>があるが、それとは別に、<知覚的世界の外についての情報伝達機能>もある。
この情報伝達機能は、以下の過程によって、成就される。第1段階:個人と個人の間における主観を超えるコミュニケーション。(バーバル/ノンバーバル/両方の複合)第2段階:個人の主観を超えるコミュニケーションから、さらに前提となる世界像の形成。


人は言語を通して/によって/媒介として<客観的世界像>を他人と共有しながら持つことができる。<家族的人間関係>をひな形とする伝達能力の形成。注意すべき点。伝達能力の形成は初期段階においては、伝達の可能性、伝達の価値や有用性などについて、最初に働きかける相手の保持している前提にほぼ左右される。これはパラドキシカルではあるが、日々人々が実践している行為でもある。ときには『命がけの飛躍』と言いうる場合もあれば、ヨロコビを伴って、(恐らく元々あった前提の確認として)遂行されることも可能である。


コミュニケーションの歴史的蓄積のひとつの到達点が<科学的世界観>であり、それが社会的に一定の普及を見たのは<社会的教育>のおかげである。


(個人主観的知覚+記憶+運動)×(共同的知覚世界+言語)=生きられる世界×世界図式


ま、やっつけ仕事にしては、よくできてるんではないかい?一風呂浴びた時間を入れて一時間半で、何も見ないで、これ書いた。記憶にはいろいろと頼った。