二つの思考形態


ハー、眠い。


脳神経言語学と日本語の関係についての初歩的な論文を読んでいたら、連想と計算の2種類の機能という話題が出ていた。


そこを敷衍して、人の認識と思考について考えてみた。


これは、日本語の構文で言うと、ふたつの根本的なフレーミングの違いとも対応しているのではないか、と考えた。
「富士山が見えるよ」と「わたしは富士山が見える」とも、間接的に関係づけられるのではないかという仮説につながる。


論理演算、つまり概念的な言語の操作も含む、計算的的思考においては、主体の状況との関わりは
いったん捨象されるか、または、認識主体といえども、客体的世界に繰り込んで、主体的関与性はいったん棚上げされる。
哲学的には超越的次元においてすべてを構成する行き方になる。このとき、個別の対象は「関係」において把握される。
数学はその典型であろう。計算ですべてに片をつけようとする認識。「富士山が見える」「三角形の3つの角の和は180度」
分析哲学的立場。


一方、主体と世界との関わりを、生まれてから死ぬまでの実存に根ざした主体の物語として把握する認識もある。
客体的事物も、本質的第一義性としては主体の生きる世界を構成している出会いのエピソードとして位置づけられる。
主体の生きつつある時系列にすべてが秩序づけられ、物語的に把握され、記憶の想起によって時系列の再構成を
行う場合は、まず、連想という思考法に頼ることになるだろう。「わたしは(あるとき、あるところで)富士山を見た」
「わたしの理想は、自分とみんなが幸せになることです」


一旦このように腑分けしておいて、両者の関連を問い直すならば、個性やら、社会的役割に置いて、どちらを優先して
使っているか、などの原因によって、人によって偏りがあるのが実情であろう。
人格にも影響を及ぼすであろうし、価値観にもこのことは反映するであろう。
あるときには、一方は他方を軽視し、優越感を抱いていたり、敵愾心を持っていたりする場合もあるだろう。


しかし、道徳的問題以前に、認識能力を正しく用いるためにも、個々の能力に応じて両者のバランスを取ることが必要だろうし、
できうれば、苦手な方についても最低限の行使が可能なように日頃から鍛えておくことが賢明な自己教育の基本であろう。


はいはい、メモメモ。