夏休みの絵のない絵日記


今日は台風が過ぎたばかりで曇りだったので、午前中のプールはどうしようか迷いましたが、結局行って、500メートルだけ泳ぎました。今日はいよいよ筋肉が出来てきたみたいで、いつものゆっくりではなくで駆け足するような泳ぎ方になりました。


ツタヤで「戦争と平和」を借りるとき、4枚千円の日だったので、ほかに、「アンナカレー二ナ」と「アレキサンダー」と「キングアーサー」をかりました。「クレオパトラ」も借りたかったけど、一週間でそんなたくさん見ることができないかもしれないのでやめました。


コンビ二のよくばりスパを買って、さっそく食べながら「戦争と平和」を見ました。前半はあんまり戦争がありませんでしたので、タイトルサギちゃうんか、はよ戦争せんかい、とか、ナターシャの純愛が放蕩者の貴族に壊される中盤の見せ場で、誰かの言うように通俗歴史小説まんやってくれるなあ、とか、言うてました。銃後の貴族といえども平和ではない事が分かりました。退屈なだけの平和を描いていては、原作者の平和への訴えの威力がそがれるからでしょうか。


後半はボロディンの戦いに金がかかっていましたが、その後はだれます。映画の中でボクが一番かっこいいと思ったのはクズートフ将軍ですが、これは映画の中だけで本当はそれほどでもなかったようです。


映画を見た後、気になったので、ナポレオンの戦争について、調べました。革命を外国の干渉から守るため戦った国民軍を解体することもできず、諸外国へ戦争を仕掛けるほかに選択肢はなかったようです。
最初は優れた作戦で、ある本ではその後の1世紀半にわたる作戦の元となったそうです。革命の輸出みたいなことはどの程度言われたのでしょうか。ヘーゲルが世界精神が馬に乗ってやってきたとか口走ったそうですが。


映画の見始めから、ぼくはすごく感覚がシニカルになっていて、映画をそのまま素直に楽しむのではなかったのですが、これは幼稚園の時に人形劇が来て、赤ずきんちゃんがお客の園児にこれからお昼寝するんだけど狼が来たらみんなで大きい声で狼が来たって言って起こしてねと馬鹿げた台無しの台詞を言ったあと、「ぼく以外の全員が」狼が登場した途端一斉にわめき始めたとき以来ちょいちょいあることです。


だからそれはいいんだけど、自宅のMacの画面で動画をみるのが通常になってしまったせいか、こういった懐かしい映画をレンタルして借りてきても、アニメと同列において見てしまいます。視聴態度そのものが変わってしまった。ポイントオヴノーリターンを通過しちゃっています。フランス軍に明け渡すことになったモスクワを去る一家の荷馬車に、負傷兵を乗せるために家具は全部降ろしマせゆよ、お父様なんてナターシャが言う泣かせどころにすぐ反応して涙が出るのは、明らかにアニメ泣きトレーニングが完了してしまっているせいです。


電車に乗って景色を眺めていたときに「それ」はやってきたのです。サルトルの「嘔吐」のマロニエの木の根っこ体験みたいな、「それ」が。


車外の景色はどこまで行っても人工物であることのウソっぽさ。映画、アニメ、小説の人工感と地続きである拵えものでしかない安っぽさ。通天閣が見えて始めてうっすらとかけがえのない個物がかろうじて確認できるほど、そのほかの建物の群れのどうでもよさ。


アニメの背景画とどこが違うと言えるのか。人の作った記号的なアピアランスという点での変わりのなさ。


パラオ行きたーいっ!!


叫びたくなる。叫んでも何も変わらない。叫びたい感覚を抑えることができる自分を認識する。今日これまで目にしたものの中では「戦争と平和」のオードリーヘプバーンのパターン化されたイノセントな愛くるしさの演技がもっともヴィヴィッドであったという味気ない事実を思い知る。


ツイッターで見た著名な評論家の哲学についての討論のまとめにあったのだが、哲学あるいは思想は詩的言語を用いた表現(ハイデガー的)と論理的言語を用いた表現に二分されてしまっているという話。


本屋の立ち読みで読んだある哲学的思想家の、ヘーゲルの重要さの指摘、同じ著者の別の本でのフッサールのやったこと以上のなにかを言語哲学も、ポスト構造主義もなしえていないという指摘。


このふたつは今日偶々見た。詩的言語による存在解釈は、フッサールの弟子であったが新たに打ち出した方向性が認められなかったハイデガーの仕業。
師が新境地を開き、弟子がそっからジャンプするのは、昨日のジョイスベケットのコンビにも通じるような。米朝と枝雀もそうだ。


<知覚の直接性と優位性の崩れ>体験。
わたしは今後、「それ」をこのように呼ぶことにしよう。
50年と約8ヶ月守ってきた内なる自然がふやけた。


こんなときは子どもの頃の揺らぎのないものに触れるのが良いだろうとこんなものを拾いだすわけで。
A Boy Named Charlie Brown
http://www.youtube.com/watch?v=c5y4_W-humw
ジンセイで最初に買ったのはこれが入っている映画のサントラだったんです。
Failure Face のルーシーたちの笑い声の良く通るところがまたよいです。時間を超えてます。


帰宅後は、最近のアニソンの耳コピにチャレンジしました。 鍵盤をみないほうが聞いた音列が早く再現できます。それから目で見てどの音を押さえているのか確認する当順番になります。


ところでピエールの役をやったヘンリーフォンダはこの役はやらない方が良かったと言ってるんですね。少し気の弱いインテリのイメージがほかの作品と合わないと思っていたのでしょうか。ヘップバーンが演じたナターシャちゃんは原作では12歳でもう兄ニコライの友人ボーリスに恋をしているなんてところがありましたが、映画ではもちろんそんな描写は脚本の段階で処理済みでしたね。1956年のハリウッドの大きな大きな作品でした。ではまた、お目にかかりましょうね。さいなら、さいなら、さいなら。