認識論の教科書「知識の哲学」を読み終わった


戸田山和久著「知識の哲学」(産業図書)を読み終わった。


学部の教養課程や哲学を専攻する学生の入門的な哲学教科書シリーズの中の一冊である。


古典的な哲学の個人の信念と真理の形成を扱うという方針や理論的枠組みや基本概念が、20世紀の主に英米系の言語哲学的アプローチの展開に伴って根底から掘り崩されて行く過程を追い、最終的には、新しい認識論は認知心理学、コンピューター科学、神経科学、社会学科学史学、図書館学などが含まれる学際的な営みとして再構築されるだろうというヴィジョンの提示で終わる。哲学者はそのような社会的なレベルで推移する知識に関する理論形成に参加することになる。筆者はそのことに積極的である。実際に科学者の研究が分野の隣接するエキスパートのチームワークによって実行されている。


最後の章で結局ゼロから認識論を作り直す時点に我々は立っているというのだが、これを教科書として学ぶ学生向けにはそのために古典哲学の読み直しは有益な方法のひとつであることを再度説き直してもよかったのではないだろうか。古典を軽視し過ぎることの予防として。


とはいえ、私はSF小説で描かれるような未来の理想の科学者像および哲学者像を彷彿とさせ、好感を持ったが、一方で,この教科書以前から、身体論などで心理学との対話をベースに研究を進めている現象学的アプローチについて言及がないのは筆者の身を置いている社会的文脈上「仕方がない」ことなのだろうかと忖度せざるを得ない。道具としての認識を主張するのであれば、有用な道具のひとつとして紹介程度はしてもよいのではないかと思った。


以前読んだ中公哲学の歴史11「論理 数学 言語」によると20世紀後半は言語から心へと関心が移っていったそうなのだが、その辺りのことや現象学との交流は、産業図書の同シリーズの「心の哲学」の方を見よ、ということであろうか。


さて、何年か前、何でも学んで自然史における人類の現状の全体像をつかみたいと考えて、自分なりのプログラムをメモしたことがあった。


そのときに対象を大きくみっつの分野に分けてみた。人類にとっての環境を形成している外的対象としての自然=宇宙とその下位システムである地球と生態系、人類が地球上に形成している人間圏システム(by松井孝典、確か2050年ごろに物質交代の限界を見て現状の人間圏システムは崩壊するとのこと)の内部構造、そのインターフェイスの部分のみっつである。もっとも、厳密には、人類はこのインターフェイス部分で直接得られた情報しか確実なものとしては持っていない。世界像は一次情報から構成されたものであり、ホログラム的な意味で鮮明度を欠くような部分的なものである。これまでのところ社会観として思考されてきている人間圏システムに至っては最低限必要な自画像のラフスケッチさえ出来上がっていないのではないだろうか。


対自然環境では、
(1)人類のどの個人をとってみても基本的に持っている生物としての認識能力とコミュニケーション能力それらを行使して得られる知識の蓄積、(ブロック体部分は以下省略)(2)その個人が生まれ落ちた共同体によって言語的に、あるいは非言語的に伝達される生活様式や文化、(3)さらにその共同体が接触する自然環境と隣接する共同体や上位の社会組織との交通


対人間圏システムでは、
(重複するが)
(3)そのミニマムな共同体が接触する自然環境と隣接する共同体や上位の社会組織との交通、(近代以前のミニマムな共同体を超えて作用する国家的統治や宗教的の実践とそのイデオロギー)(4)近代化以降に体系的に獲得され蓄積された自然科学的知識体系やその他の学問各分野および工学的知識(5)近代化以降に導入された国家組織および資本性生産様式とその結果についての研究の蓄積などなど


これらを単純化すると、個人に対しては、対自然と対社会のインターフェイスの窓が開かれている。そして、それぞれが、個人が物心つく頃には、それぞれの窓口と対象に応じた枠組みが所与のものとして作動してしまっている。


個人はそれなくして自己認識すらできない自己と対象との未分化な領域というものが存在する。幼児の心理の発達を考えるならば、意識において、当初は自他の区別は不分明であるものが、日々の生活の繰り返しの中で行動様式と神経系の組織化が進むに連れて区別が進み、やがて自己の身体と置かれている環境との関係を構造的に把握しなおすことにより、自他の区別が明瞭になる。これは物心がついてからではなくそういった過程そのものが物心がつき始めるときに起きる変化なのであろう。
ピアジェによれば、幼児の発達では、他人知覚が客観的思考より早いのは有名なことだそうである。滝浦静雄「言語と身体」P78 なお、そういったことからメルロポンティは相貌知覚に着目した)


話がそれるが、このブログの前項の私の個人的なパラオでの体験は成人した35歳のヒトの意識が覚醒したまま自他の未分化という一次的な変容を被ったことに関する記録としても読めるものである。


私は新しい認識論というのは、発生的にはこういった個人及び社会的意識の形成、機能論的には、それが認識システムとして安定してからの外的対象と内的表象の関連を扱い、記述的したり、仮設を立てたりするものだろうと思う。


そういう観点から整理しなおすと、
個人レベルのヒトの認識能力
(1)生物としてのヒトの認識能力
   ここでもすでに親子関係などの集団による生活が前提であろ
   う。以下同文。
(2)(1)と平行しての、シンボルによる(1)の緻密化
(3)ミニマルな共同体的文化の伝達と学習

(1)〜(3)は実際には絡まり合って作動しているが研究の方法や対象としてはいったん分けた方がよいだろう。その後に統合してみたり整合性を吟味する。そういうのが哲学者の役割にもなろう。
「宇宙船ビーグル号」のジャーナリストの役割。


社会的レベルの個人としてのヒトの認識能力についても、同様の相似的な整理が可能であると思われる。


ところで、学際的な研究の導きの糸として、パタン認識についての、それが<類の形成は、論理的には多様な可能性がある中で、生きる事の有用性から選択されるという帰納の過程である>ことが重要であるかもしれない。脳にとっては自動的で、ある程度不可逆な過程でもあると考えられる。


これらを既存の学問分野との対応を考えるならば、
心理学(意識の直接の記述としての現象学的心理学と、実験的心理学の照合も必要ではないだろうか)
言語学(論理学、記号学認知言語学、言語人類学など)


科学的研究の言語である論理学と数学
生活意識の心理学においても研究者が共通の基盤としてもつべき古典物理学的な時間空間の記述方法としての数学も要請されるかもしれない。


ヒトの素朴な認識能力に基づく日常生活の範囲内での知識体系と高度に複雑化した人間圏のシステムの形成から運用、(またはその生態系との調和を欠く暴走まで)を可能にした情報の蓄積、すなわち科学的認識とその技術的応用の扱いはいかにすべきであろうか。そこに、価値の形成や歴史認識や異文化の了解などはどうか変わるのであろうか。これは、パターン認識がこういった高度な知識体系を生み出した後、有用性の足枷を離れたことに着目でべきだろうという予感がある。本稿は、基礎的な部分についてのメモで終わる。


自己組織化というキーワードは、できあがった所与のシステムの記述にととどまるのか、あるいは、新たな望ましかるべきシステムの構築にも威力を発揮するものであろうか。


さてそれでは、Dick Lee の異文化間交流ソングをお楽しみください。
(これを書きながら聞いていたのはDick LeeのPeace Life Loveというアルバムでしたが、youtubeにはなかった)