あなたはどうやって、からだとこころとことばを区別していますか。

 ふだんの私たちにとって、ことばとこころはぴったり張り合わされた二枚の布のように密接に結びついていますから、その働きをそもそもことばとこころとに別々に分けて扱うのさえ難しいものです。それはまるで、こころとからだのようにぴったりひっついています。しかし、こころとからだの密接な結びつきにも関わらず、その働きからそれぞれを区別することはできます。こころの中でどんなに念じても目の前の石を動かす事はできません。昔はそんな事のできる人がたくさんいたのでしょうか。私の身の回りにはいませんが。また、歩きながら考え事をしていても、歩くのに支障はありません。食べながら友達とおしゃべりをしても、間違って食べ物をこぼすことも普通はありません。私の母はもう80歳を過ぎましたから、食事に集中していてさえよくこぼしますけれども。とにかく、こころとからだは、その働きから一応の区別はできます。


 いや、心の働きも脳が関係あるから、心はからだの一部だという人もいます。その説を否定するのは難しいです。しかし、その説を肯定しても、毎日直接経験している、私たちのこころとからだを区別しているこの実感は大きく変わりません。こころで直接感じとる、言われるまでもなく考えるまでもなく、誰もが自分のこころとからだについて、分かりきっている、からだとこころの結びつきとそれぞれの働きの違いについて分かっていることと、脳の働きが心を支えているという知識の違いも大切です。そうでなければ、科学的理論を踏まえていない人は自分のこころについて、からだについての実感でさえ、自信を持って判断したり、人に話したりできなくなってしまいかねません。


 こころとからだは違うものだ。強い結びつきはあるけれども別のものなのだということはよろしいでしょうか。では、こころとことばはどうでしょうか。アンケートをとってみたら意見が分かれそうです。気がつかないけれど、実は、こころの深層でもことばが働いているのだと主張する人もいるかもしれません。見たり聞いたりすることもことばが支配しているという説さえあります。色についての言語体系が違って、色の語彙の数によって色の識別数が違うというのです。そのことについては議論が必要です。


 普段の生活で、ものごとを見たり聞いたりしたら、大体必要なことはことばで言い表すことができます。できごとや知識はことばの形で覚えておいて必要な情報を引き出すことができます。それもことばという形をとって。ことば、ことば、ことば。日常生活はことばに満ちあふれています。


 こころとことばがちがうという意見を主張する場合、なにかいい例はないでしょうか。名前を知らないものについての経験はどうでしょうか。外国へ旅に出てメニューの写真を指で指して注文し、始めての匂いと味。食べて味わいながら、これはうまいものだけど食べ物だとしかことばで表現できないものについて、こころは確かにことばなしでその食べ物を受け止めています。からだの舌と鼻を通してかもしれませんが、ことばはただそれを食べ物としか表現していない時、こころの働きが優位に立っています。


 結びつきの順番で言えば、こころとからだの結びつきの方が、ことばとこころの結びつきより強いと思います。現代の生活の中ではそうでもないかもしれませんが、自然な人間性から言うと、そうなると思います。


 別の区別もあります。ことばは結局、ただの人の出す音か文字でしかないが、こころはからだといっしょに実在しているものだというものです。だから、口では何とでも言えるが、ぺらぺららおしゃべりするよりも、不言実行だ、巧言令色鮮し仁だ、などとも。ことばは単なる記号に過ぎない、と。確かに、呪文を唱えて雨を降らせることはできません。遠い昔はそういう人がいたかもしれませんが。ものとはいえ生きているこのからだを動かしているのはことばではなくてこころなのでしょう。たとえ命令されても、意に染まない人の命令では人は心の中ではいやだなあ、いつか復讐でもしてやろうかと考えますね。


 嘘をつく人がいます。心の中で本当だと思っているのとは違うことを言うのですね。良きにつけ悪しきにつけ、これもこころとことばが同じではない証拠でしょう。正しいと思って間違ったことを言ってしまった場合も、それは全面的にこころの責任とは言いがたく、その人のことばを使う方面のこころの一部門がしでかした過失です。しかし、普段は多くの人は嘘をつくのはなるべく避けて生きていると思いますし、間違いは誰にでもあるにせよ、大体は大きな失敗もなく言葉を使って意志を表明したり、気持ちを分かり合ったり、情報のやり取りをしていますね。何かを集団で成し遂げるのにことばは重要です。


 そうです、ことばは人と人をつなぐ働きもあるのでした。こころは一人一人別のものですが、ことばはその別々のこころを持った人同士が共有しているシステムでもあるのでした。個人的に気に食わないからといって、あることばを消すことはできません。個人的に良いことばを発明したからといってそれを広めようとしても、たとえ広告会社のような力をもってしてもなかなか難しいです。


 分かりきったことを長々と書いてきました。これは説明ではありません。誰でも知っていることの確認です。からだの上にこころがあり、切り離せません。からだにある目や耳やその他の器官を通して出来事やものについてのあれやこれやを知ります。こころとことばは違うものですが、区別がつきにくいものです。しかし、事実や現実を伴わないことばが人の口を通して出てしまうことがあり得るように、ことばはある種の複雑な記号で、からだやこころに比べると二次的な存在です。ことばの良い面は、そこに人やものがなくても、あるできごとが古い過去の事であっても表現でき、自分で覚えておいてそれについて考えたり人に話したりできることです。悪い面は、ないものについてはなすことができるので、ときには間違っていたり、つまり言語がもたらす幻想というわけですが、悪い人が自分の利益のために人をだますのに使えたり、悪気がなくても間違いのもとになったりすることです。


 しかし、生物としてのヒトの適応戦略として、集団的情報であることばをもったことは、火と道具の使用以上に大きな飛躍だったでしょう。いや、実際にはそれらの複合的相互作用として捉えるべき事態が起きたわけですが、それはたぶんすぐに個人のこころのある面を強化し、ある面を押さえたかもしれまん。


 この文章の中にも、悪気はないけど間違っていることがたくさん入っていることでしょう。