さぞやお月さん

ブログを始めてから3週目で初めてコメントをいただきました。
「三ヶ月前まで非常勤で日本語を教えていたもの」さん、
読んでくださりありがとうございます。


どうか、遠慮なく、「そこは変だ」とか、「わけ分からない」とか
ツッコミを入れてください。
これからもよろしく。


このブログはみなさまの読みとツッコミにより、
さらに深化発展するはずです。


さて、今日は日本語の意味から発展して、
ヒトの共感能力に関する話題です。
「さぞ」の教え方について、孔子の方、いや、
講師の方とやり取りしたことから考えました。


「さぞ〜」
人の気持ちを察して余りあるときや、きっとこんな気持ち
なのだろうと推測をたくましくしたときに
この「さぞ(や)」を使いますが、


いろいろな使い方のなかで、「我がことのように」
「痛いほど他人の気持ちが我がことのように感じ取れる」
他人の体験を「あたかも自分も体感したかのように」
感じたときに使う用法に、着目したいと思います。



このような共感できる能力をヒトが持っていることは
昨今の脳科学では「ミラー細胞」の存在によって、
生得的にヒトの能力として備わっているものと考えられて
いるようです。


発見のきっかけは、イタリアの実験室のチンパンジー
研究員が休憩中にジェラートを食べるところを見て、
脳波に反応があったことだったそうなので、ヒトに
限らなくてもよいようですが。
犬やいるかの人なつっこさなどとも関係ありでしょうか。


異文化間のコミュニケーションにおいても、
共感する能力をヒトが生物レベルで持っているということが
基盤になっているのだろうと、私は思います。


「ミラー細胞」の存在を知る前から、私は、
同じ人類という生物の一員であることから
共通している要素を媒介にするのが賢いやり方だと
考え、実践しておりました。
(簡単なことです。腹が減ったら食べたいし、
素敵な異性を、(異性でなくても)みたら近づきたくなるし、
珍しいことには好奇心を持つし、
お金はたくさんある方がいいしなど・・・。
お金に対する欲望は生物レベルではないでしょうが、
ほとんどのヒトには共通してますから、
まあ、そういった共通した分かりやすさを軸にして、
じゃ、それを日本語ではどう表現するかというふうに
持って行くわけです。)
特に、日本語によるコミュニケーションの経験がまだ
浅い段階の学生に対して教える際に有用な観点だと
思います。


物事を知的に抽象的に理解するのを好むタイプの学習者もいれば、
直感的に具体的に分かりたいというひともいますが、
扱う素材は、そういった誰にも共通した物事から入るのが
よろしかろうと思います。


文化の違いを考えるときに、うえに述べたような生物的共通項が
土台にあり、そちらの方が大きい比重を占めていて、文化の違いを
無視してはいけませんが、それを乗り越えがたい壁のように考える
必要もないだろうと思ってきました。


平たく言うと、どこの国や地域の人だろうが、地球上の
同じ種に属するもの同士としてみれば、大した違いはないだろうと
いう考え、というか、つき合い方の流儀とでも、言いましょうか。
もちろん違いを良く認識し、尊重し合うのが前提ですけどね。
文化が違うごときで、コミュニケーションをとる材料に事欠くようなこと、
共感して微笑み合う回路がいっさい断たれているなんてことはありません。
(属する社会グループ同士で対立がある場合はの難しいものがあります。
極限状態では、出会ってしまえばやっつけ合いです。
あるイスラエル人があるアルジェリア人と日本国でであってしまったとき、
彼は遠〜くの方から、満面に笑みをたたえて、大きな声で呼びかけ、
礼儀正しく挨拶をしながら近づいて、握手、ハグ、もう1度握手、
笑顔で満足げに去る、という行動を取りました。
明確に<この場では>敵意のないことを示す必要があった
というわけでしょう。これはお疲れさまなことです)


ですから、「ミラー細胞」の紹介を最初にTVで見たときは嬉しかった
です。素直に喜びました。
また、もし反対に「ミラー細胞」のようなものをヒトはもっていない
のだということが証明されていたら・・・と想像するとちょっと怖いです。
(もちろん、科学者の仕事は通常、OOが存在しないことを証明するため
のものではないでしょうけども)
現代の人類全体の行儀の悪さを見ていると、
「そんな予定調和的な都合のええもんはあらへんで」的な
結論に簡単に至ってしまいそうな勢いですから。
「ミラー細胞」の存在だけでは、素朴な「性善説」に立てないという
現実は認めざるを得ないでしょう。


高校の漢文で習ったことですが、
孔子大先生は「測陰の情」を説いておらました。
子供が井戸に落ちたと聞いたら、誰しも助けてあげたいと思うじゃろう、
という例が、そこではあがっていたと記憶しています。
その当時から、
強調して説かねばならぬ状況があったのでありましょうか。
講師先生、いや孔子先生も「ミラー細胞」のことを知ったら、
自分の説いたことは間違っておらなんだと喜ぶのではないでしょうか。


私は「さぞ〜」を教科書にみつけたときは、
いつも「さのよいよい」というフレーズとともに「炭坑節」を
思い出します。
「つっきがあー出た出えたあ、つっきがあ出たあ、よいよい。
三池炭坑のうえに出えた〜、あんまり煙突が高いので、
さぞやお月さん煙たかろう。さのよいよい」
人というものは、場合によっては、月の気持ちまで感じとる
ものなのですなあ。いとおかし。あなかしこ。さのよいよい。